[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.036 穢れ

 

 

 ごきげんよう。好きなものを詰め合わせた結果、上記の通りに仕上がりました。他人から何を言われようとも、好きなものを好きと叫び続けたい。未来では好きだったものが好きではなくなっていたとしても、好きだったことは忘れないでいたい。好きなものを身に纏いたいし、好きなものを身体に取り込みたい、そして好きな人を愛で続けたい。近頃、その思いがより強くなっていることに気が付きました。年齢とか性別とか、そんなことは気にしたくないし、気にする必要が無いと思う。「好き」、この二文字だけを信じてやればいいんです。わたしはこの世界が好きではないけれど、この世界に含有されている特定の[物/者]を愛している。それだけで、少しは満たされるような錯覚に陥ります。そして、錯覚は信じつづければ事実となる。”好き”の事実で人生を埋め尽くしてやればいい、文字通り好き勝手に生きて、暴れてしまえばいい。ただそれだけを大事にして、日々来訪する[今日]を繰り返していきたいと思っています。

 

 ”割と好き嫌いがハッキリしているタイプだね”、といった言葉を周囲の方からいただくことがある。確かに、自分でもそのように思う節がある。好きなものは圧倒的に好きで(偶に好きの容量が大きすぎて苦しくなる時がある)、好きでないものに対してはほとんど関心を持っていない。しかし、好きでないからといって”嫌い”という訳ではなくて、あくまで”興味を持たない”というだけなのだけれど。個人的に”嫌い”という感情はものすごいエネルギーを含んでいると思っていて、その感情を酷使すれば自分自身が枯葉のように萎れてしまう。そのことを自分自身で理解しているからこそ、安易に”嫌い”の感情を抱かなくなった。そもそも自分にとっては”嫌い”だったとしても、誰かにとっては[好き]なものである場合が多い。誰かにとっての[好き]を否定することはしたくないし、一度”嫌い”と思った[物/者]を「いいね」と言うことは、それだけで心のエネルギーを大きく消耗することになる。時折、”嫌い”の感情同士で共感しあう場合があるけれど、今思い返してみると、それってなんだか虚しくないか?とも思う。それならば、好き同士で呼応したい、一つの対象へのそれぞれの愛をぶつけ合いたい。そのように思うことは綺麗ごとでしょうか?。

 

 人生の中に一つでも「好き」があれば、当人は生きやすくなる。好きの数が多いほど良いかと問われると、一概に首肯することは出来ない。ひとりの人間が持ち合わせるエネルギー総量は限られている。対象が増えれば増えるほど、注がれるエネルギー量も分散されてしまう。それでも、自分が負担に感じない程度の対照数であれば、其れ等は人生を豊かにしてくれる。わたしはとにかく本が好きで、その中でもダークな世界観の小説を愛している。以前読んだ本の中に「自分自身の知見を広げる為に、時として普段読まないジャンルの本を読むことも効果的」といった内容が書かれていた。これを実践したこともあるけれど、今となってはその本に記載されていた内容は頭の中に留まっていない。結局、そういうことなのだろうと思った。人間は興味関心がある事柄にしか、記憶領域へと招き入れることはしない。本を読み進めていくなかで、突発的に他ジャンルへの興味が沸き上がる事象を度々経験している。興味が沸いたから、一先ずそのジャンルを読み漁ってみる→そのジャンルから派生した他ジャンルにも興味を持つ→。わたしの場合は、その繰り返しで興味関心の範囲が広がっていきました。

 

 結局、”好きでない”よりも「好き」から始まることの方が多い。そして、「好き」が人生の窮地に光を差し込めることだってある。「私はどうしてこれが好きなのだろう」それぐらいに感覚的な愛を、これからも抱えていきたいものですね。

 

 

 好きをどこまでも追及すれば

 それ以外は駄目駄目だったとしても

 許容される世の中だから

 

 考えようによっては生きやすいな、世界