[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.035 ストロボ現象を目の当たりにして

 

 こんばんは、挨拶ができない人間は全員絶命すればいいと思っています。

 

 最近、わたしの周囲では同棲されたり、ご結婚されたり、ご懐妊なされたり、出産されたり、そういった生活上の変化や人生の岐路を経験されている方が多く見受けられます。大切な存在と家族になったり、新たな生命が誕生したりすることは、わたしの言葉では表しきれないほどに素晴らしいことです。心からのおめでとうを伝えたい。

 

 ”最もお手軽に不幸になる方法は、自分と他人とを比べること”という言葉を以前も記しました。周囲の方々が新たな道を進んでいく姿と現在の自分自身を比べることはしない。比べたところで何も生み出すことなんて出来ないから。しかし、比べることはなくても、想像を巡らせることはしています。「例えば、わたしが同棲したら、結婚したら、子を授かったなら、一体どうなるのだろうか」といったことを最近よく考えたりする。未だチャイルドな思想を膨らませ続ける私自身が子供を?特定の異性と一つの家庭を築く?同じ屋根の下で何日も何日も他人との生活を繰り返す?。考えただけで頭が痛くなります(これはより現実的な表現です)。そう思うと、我々の先祖はその連鎖を幾度となく繰り返してきたんだな、と勝手に感心してしまいます。

 

 そもそも、私には恋人が存在しません(これも何度書けば気が済むのだろう)。これをレースに例えるなら、私はスタート地点で寝そべりながら酒を流し込んでいる状態です。「すごいなぁ」と他の参加者を傍観しているばかりで、自分自身は進もうとしない、端から進む気がないのです。進みたいと思った時に進めばいい、そう思っている内にアルコールが心にまで行き届き、現在は立派な居眠りをかましています。

 

 ”幸せになりたい”なんて空に向かってぼやく人間は馬鹿だと思っています。これは種々雑多な書物を読み漁り、私なりの人生を歩んだ上での完全なる持論です。個人的に幸せは未来にあるものではなく、現在に存在するものだと思っていて、”幸せになりたい”とは即ち未来への期待/希望であって、同時に現在に対する否定です。幸せはいまこの瞬間に存在している。どれだけ現状が悲惨な場合でも、僅かながらの幸は存在している。その小さな幸を見つける練習を怠らなかった人が、気が付いた時には大きな幸せを手にしているのではないでしょうか。そして、幸せに対する価値基準は人それぞれ個人差があり、私自身の価値基準として、自分と幸福との間に他者は介在していません。

 

 自分ひとりで幸せになれるし、他者が何を言ってこようと自分の心は乱されない。それはとても生きやすく、生活上に平静を齎す良い考え方であると思います。「無理はしないで、自分自身が生きやすいように生きればいいんだ」、単純にそう思っていました。しかし、自分だけで独り占めする幸福は真白のキャンバスに白色の絵具で風景を摸写しているかのように、次第にその空虚さだけが影を濃くしていくばかりでした。どうせなら、色とりどりの絵具を使って世界を描きたい。その作品を誰かに見てもらいたい。その作品で誰かを少しでも喜ばせることが出来たなら、また違った形の幸せが手に取れるはずだから。

 

 

 まぁ要するに、”ひとりでどれだけ幸せになってもつまらないよ”ってこと。この年齢になって漸く気づくことが出来ました。もう、一人での幸福は完遂した感があるので、これからはもう少し誰かと幸せを共有したいなぁ、なんて綺麗ごとを柄にもなく吐いてみます。なんか、一人で過ごすには人生はあまりにも長すぎる。自分の為だけに繰り返される生活はもうこの辺りでお腹いっぱいだ。これからはもう少しばかり人と関わりながら生きていこうかしら。可能な限り人間を遠ざけて、やっとたどり着いた境地でございます。理由もわからずいなくなったり、放っておいても勝手に消えていく人間もいるけれど、それは仕方がないことだから去った人間は過去の海へと渡しましょう。それよりも、いま周りにいる人達を大切にする。一言に”大切にする”といっても様々な形があるけれど、多少不細工でもいいから自分なりに”愛”を形作っていく。

 

 「愛されたい」

 

 とは思わないけれど、

 

 「少しばかりの愛を配りたい」

 

 とは思っているんです。