[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.076 DECADENCE.

 

そんな薄い翼で

何処に飛んでゆけるというの

 

堕ちる時には悲しみの気球になる

私の小さな翳りを見つけて

 

悲しみの気球 / 鬼束ちひろ

 

 

 産まれてきたことに意味なんてないのに、生きることに理由なんてないのにな。親が勝手に交尾して、勝手に産まれてしまっただけだ。この世に落ちた時にはとても喜んでくれたのだと思う。けどね、私は誕生してしまったことを素直に喜べないでいるよ。

 

 別に、これはネガティブな感情ではないと思っていて。何故ならば、私がずっとずっと感じていた、ありのままの感情だから。心の底で、いつまでも響いている言葉だから。

 

 産んでくれたことに感謝すること、難しい。幸せになること、これはとても簡単だと思う。幸福みたいなものは、その辺にゴロゴロ転がっているものだ。けれども、「幸せ」に言葉通りの効用があるのだろうかと思う。幸は自身の解釈次第であって、”私は幸せです”といった一種の思い込み、自己洗脳みたいなものなのではないだろうか。

 

 それが好ましいと思えるのなら、素晴らしい事だと思う。そんな感性を有していたかったなとも思う。考え過ぎなのだろうか、眼前にある幸福みたいなものに対してさえ、疑念を抱いてしまう。そして、気が付いた時には幸の形は壊れてしまう。

 

 生きることに意味などないのと同様に、死ぬことすら無意味だ。ただ居なくなる、それだけ。お前がいなくなっても、世界は何も変わらない、ただそれだけのこと。生きることにも死ぬことにも意味がない、それだけが唯一の生きる理由として効果的なのかもしれない。どちらにも意味がないのなら、どちらでも構わないということ。そして、何をしても問題ないということ。

 

 人生なんてものは、惰性だ。家族や友人関係を構築することも、ビジネスを展開することも、何もしないことも、ただの暇つぶしに過ぎない。やりたい人間だけがやればいい。刑法に触れない範囲であれば、何をしてもいいんだ。”何をしてもいい”ということは、”何もしなくてもいい”ということでもある。何もせず、何も生み出さず、ただ人生を消費する。これもまた素晴らしい人生だと思う。当人に虚しさが無ければの話しだけど。

 

 そんな真面目に、生きなくてもいい。忙しなく活動していても、何もせずダラダラと過ごしていても、君の価値は何も変わらないし、勿論わたしの価値も変わらない。ヒトは、産まれてきたからには一度きりの人生の中で何かを残したいと願う。それが子孫だったり、作品だったりする。そう思うことは仕方がない、だってそれは予め脳に組み込まれた本能だもの。けれども、ここで落ち着いて考えて見てほしい。本当に何かを残すことなんて出来るのだろうか。子を残しても、次世代では血が途切れるかもしれない。作品は時が経てば経つほどに人々の記憶から消えていく。そもそも、千年後には地球が存在しているのかさえ定かではない。

 

 結局その程度の事だから、わたし達に出来るのは”現在を消費し続けること”ぐらいしかないのだろうと思う。もう自分を荒削りするような努力は止めてしまって、好きなように気楽に生きればいい。自分の人生を好きなように消費していけばいい。旨いものを食べよう、好きな音楽を聴こう、たくさん眠ろう。そういうことにも飽きてしまった時には、もう人生すら辞めてしまえばいい。生きるということは、少しずつ死に近づくということ。産声を上げたその瞬間から、わたし達は死に向かって歩みを進めているんだ。ただそれが少しばかり早くなるだけのこと。

 

 

 そんな感じで今夜も踊ろう、生きることなんて忘れるぐらいに。