[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.054 恙無い生命と体温

 

「新たな生命が誕生した。」

 

 数日前に恩師が子を産んだ。どうしてなのかわからないけれど、こちらまで幸福感に包まれる。母子ともに無事で本当によかった。基本的に神様仏様への信仰はないのだけれど、出産の報せを目にした時には”神よありがとう”と感謝せざるを得なかった。音階でいえばどれくらいの産声を上げたんだろうか、その産声を聞いた母が心から浮かべた安堵の表情はどれほどまでに温かったのだろうか、吉報が入った父はどのような気持ちを抱えていたのだろうか。そういった背景を想像することにより、生まれながらにして生命には壮大な物語が蓄えれらている事を私は再認識する。

 

 今回はどうしてこれほどまでに、まるで自分のことのように嬉しく感じるのか不思議だ。年齢を重ねるにつれて、周囲では次々と子が産まれている。皆、知らぬ間に親になっている。後日そのエピソードを聞いて「おめでとう!」とは思うけれど、それ以上の感情が乗ることはない。それによって私の現状が何一つ変わる訳でもないし、確かに子供は可愛いし大好きだけど、私が思う「可愛い」や「愛しい」という感情は膨大な質量から切り取った極一部分だけを見て感じたものに過ぎない。その他大多数を占める子育ての大変さや気苦労を見ることも感じることも出来ない私が、それ以上の感情を込められる資格などある訳がない。各々の人生があるのは当たり前のこと、各自幸せになっておくれと願うことしか、私には出来ないでいた。

 

 しかし、そんなわたしがまるで自分事のように嬉しさを感じている。家族の人生に関与することなど出来ないことはわかっていても、それでいても嬉々としている。関係性が近いからだろうか?(勝手に思ってる)、夫婦共に長い付き合いだからだろうか?、ずっとお世話になり続けてきたからだろうか?。これといった理由を明確にすることは出来ないけど、寧ろ明確に出来ないこと自体が理由でいいんじゃないか。物凄い量の嬉しさが込み上げてきた時には、それを事細かく言語化することは難しい。嬉しいものは嬉しい、ただそれだけでいい。それだけがいい。

 

 

 たった一人が産まれるだけで、たくさんの人に喜びを与える。そのたった一人が、一人の女性を母にする、一人の男性を父にする。そして子は、無事二人の子供として声を上げる。これまで繰り返されてきた、たくさんの生命の連鎖を改めて想う。紛れもなく自分自身もその連鎖の一部分であって、産まれた時にはたくさんの人に喜んでもらえたのだろうか。自分もこの先親になることがあるかもしれないが、少なくとも現時点では想像することすら難しい。頭の中で思い浮かべられることは、理論上それを実現することが可能らしい。ということは、頭の中でイメージ出来ないことは現実に落とし込めないんだ。いつまで経っても、自分は子供だなぁと思う。今日まで一度たりとも、大人になれたことなどなかった。他の人も同じようなことを考えているのだろうか。子供のままの自分でも、子が出来れば親になる。人間性を疑うような人物が、我が子の話しをしていたりする。「こんな人間でも親になれるんやな」と思うと同時に、自分の場合はそれを容認することが出来ないとも思う。子供のままの自分が、誰かの親になることなど許されないと思うし、そう思い込むことによって安心している自分もいる。きっと、私は大人になることが怖いのだろう。そもそも、大人ってどうやってなるんだろうか。そんな馬鹿みたいなことを考えている人間を、世間は”幼稚な大人”と呼ぶのですよ。

 

 客観的に考えて、親が死にたい死にたい言ってたら、子が可哀想だ。だから私は自分の中に希死念慮が蔓延り続ける間は、親になるつもりはない。心の靄みたいなものが消えない限りは、誰かと一緒になるつもりもない。そんなこと言ってたらあっという間に年数が経って、独りで野垂れ死んでいくのかしら。まぁ、それはそれで一つの人生。大切な人達が笑っていてくれればそれでいいな。欲を出せば、自分が書く文章でクスっとでも笑ってもらえたなら、それが何よりの本望ですね。

 

 

「産まれてきてくれてありがとう」と伝えよう。

いつだって愛は直接伝えるべきなのだから。