[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.014 Call boy.

 

「明日は雨だって一日中、部屋に居ようね」

 iB / Co shu Nie

 

 ここ数週間のハイテンションライフの反動だろうか、近頃はナーバスな日々が続いている。死にたいとか寂しいとかそういう訳ではなく、なんとなく気持ちが沈み込んでいる感じ。この”なんとなく”というのが問題であり、人生の課題でもあるのだけれど、”なんとなく”を言葉にしようとすると、どうしても適切な表現が出来ない。それ以上もしくはそれ以下の意味合いとなってしまい、それでは意味がなくなってしまう。上手く言葉として表せないことを、人は”なんとなく”という言葉で括ってしまうのだろうか。なんだかとても悔しいことのように思えて、より落胆してしまう。

 

 人の温もりを感じても、一人きりで過ごしても、大金を渡されても、三大欲求が完全に満たされようとも、決して満足することは出来ないんだろうと思う。消費していくだけの生命に退屈している。ただ虚しさだけが嵩を増す。「退屈しているのなら、退屈しない方法を考えろ」と夜が耳元で囁きかける。言われずとも、そんなことは自分でもわかっている。それでもわからないままでいる。理解することは出来ても、答えを渡すことが出来ないままでいる。文章を書く事が、言葉を紡ぐことが好きだ。ただそれだけのことで、それ以上それ以下でもない。嘆いていても何も変わらない、自分が動かなければ、世界は変わらない。

 

 「常人と奇人の違いって、なんだと思いますか?」職場の先輩に問うた。「世間の常識を理解しているか、理解出来ないかの違いじゃないの」との返答をいただきました。そして、「でも、中には奇人の面をかぶった常人もいるでしょう?そういった人種は、常識を理解した上でそれを知らないフリしてる。」と続きました。何の前触れもなくこのような問いかけをすると、相手の人間性が垣間見えるようで面白い。そして私はこういった類のお話しが大好きです。何時間でも話していられるし、よりいっそう酒が美味く感じます。その時は職場だった為、酒を飲むことが出来なかったことだけが悔やまれます。あーめん。

 

 皆さんは常人でしょうか、奇人でしょうか。そもそも世の常識とは一体何なのでしょうか。世界にとって、常人と奇人のどちらが好まれるのか。いわゆる成功者という人間には、奇人が多い傾向にある。いわば変わり者と呼ばれてきた人間ですね。人とは違った感性を持っているからこそ、独創的なアイデアを生み出すことが出来る。そのアイデアが価値を獲得すれば、奇人は立派な成功者となります。だとすれば、常人はその他大勢の脇役となるのでしょうか。その他大勢の考えしか浮かばない人間は、没個性の中に埋もれることになるのでしょうか。良い解釈をすれば、皆と同じ考えができるということは共感性に長けているということであり、常識を理解することが出来ていれば、世間から抹殺される可能性が低くなる。没個性という名の個性。個性なんてものは、その人間が有している花の総称だと思う。正しく水をやれば花は咲き、放置すれば枯れてしまう。種子は各々の根底に植えられているのだから、開花出来ないのは紛れもない自分自身の責任です。奇人の孤独、常人の憂鬱。

 

 よく他人から「頭がおかしい」というお言葉を頂戴します。頭がおかしいということは、わたしは奇人なのか。それとも、頭のおかしな人間に「頭がおかしい」と言われる、それはつまり常識的観点を得ているということになり、わたしは常人となるのだろうか。

 

そんなことどうだっていいんだけどね

口元が寂しくなり煙草に火をつける感覚で

今日はPCを起動させてみました

言葉と向き合う時間だけが落ち着きを与えてくれる

人生に対する諦観を拭いきれません

いつ終わっても納得のいくコンテンツ

そこまで思い切れるわたしは幸せ者でしょうか

えぇ、きっと幸せです、幸福です

でも私にとっては、幸せが幸せとしての働きをしない

恩恵を充分に受け取ることが出来ないままでいる

「生き辛い」その言葉だけが現在の心に寄り添っています