[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.040 サブリミナル呪詛

 

 「今日」という一日と自分の相性が途轍もなく悪い、そんな一日がある。

 

 なにやっても上手く進まないし、何もしなくても上手くいかない。そんな中では何もやる気が起きないのだが、だからといって何もしないままでいることは居心地が悪い。”倦怠感”と一言で片付けることが出来ない、特殊な造形を鎖が全身に巻き付いているような錯覚があって、しかし錯覚も意識することを続ければそれは事実となる。動きたいのに動けない、動けないけれど動きたい、矛盾が矛盾を呼びわたしの原型を思い出せなくなるほどに頭中では渦が巻き続けている。

 

 「まぁ、たまにはそんなこともあるでしょう。」なんてこの抑うつ気分を空に吐き出してしまえば楽になれるだろうか。空中を彷徨う鬱々とした感情はいずれ大気圏に突入し、誰にも認識されることのない宇宙へとたどり着く。78億人が吐き出した瞬間的、もしくは継続的な鬱憤や不満が宇宙に集結しているとすれば、その宇宙で呼吸が不可能なことにも納得がいく。無重力が心にとっての重荷となることだって、きっとあるはず。ただでさえ身動きが取りづらい状態なのに、少しばかりその宇宙を想像しただけで、わたしは全ての生活や全ての人間関係に対して辟易してしまう。

 

 もちろんそんな時には自信など持ち合わせている訳もなく、自分の中にあったハズの”軸”も見失っている訳であって。自分を信じると書いて”自信”、自分自身を信じることが出来ない人間が、自分軸を持つことなど出来るはずがない。これまで生きてきた中で培ってきた価値観や生活様式、身に纏う衣服や持ち物に関する全てのことが間違っているのではないかと疑心暗鬼になる。そもそも其れ等すべてに正解など存在していない。正解がないということは、当人が正解と思った答えが正解の枠組みに嵌められる。間違いだと思った答えはすべて”間違い”と記載されたゴミ箱フォルダに投棄される。君が選んだすべてが正解、何もかもが正解であり、裏を返せば何もかもが不正解ということになる。そして、現在のわたしといえば、ゴミ箱フォルダにどっぷり頭まで浸かっている状態。身に纏う衣服も、香りも、口にする食物も、アルコールも、書物も、映画も、音楽も、有形無形問わず自分が有している全てのもの、人生それ自体が間違っている気がしてならないのです。

 

 「わたしはいつだって正解で在りたい、正解を獲得したい」といった不毛で完璧主義な理想論が私自身の首を絞めている。”絞めるなら、もっと強く絞めてくれればいいのに”とも思う。限りなく、浅く、呼吸が出来る程度に、絶妙な塩梅で加減を調整している理性。こんなこと馬鹿げている、本当に馬鹿げていると思う。馬鹿げていることを馬鹿げていると理解した上で馬鹿げていながらもその悪循環を断ち切れない馬鹿げた自分自身に憤りを覚える。「もう許してやれよ、許しておくれよ、もう充分に頑張って生きてきたんだから、もう少し楽にしてやって、心よりお願い申し上げます。」なんて陳腐な一人芝居を脳内で繰り広げながら、車窓の向こうに広がる汚い繁華街を眺めている、そんな冬模様。

 

 

 そこに転がる、醜い個性が憎らしい。