[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.039 本当に空は青かっただろうか

 

 何故かわたしは、周囲の方々から「友達が多いよね」と言われることが多い。「いやいや、そんなことないよ」と返答するわたし、心の内では”本当にそんなことは寸分たりともない”と思っていて。そもそも、友達ってなんなのだろうか。

 

とも‐だち【友達】

とも‐だち友達】 親しく交わっている人。とも。友人。朋友。元来複数にいうが、現在は一人の場合にも用いる。
広辞苑 ページ 14300 での【友達】単語。

 

 広辞苑ではこのように定義されているようだ。”親しく交わっている人”という曖昧な定義が、この謎をより最深部へと追いやるようで憎らしい。わたしにとっての親しさとは、「相手に抱く好意の総量」と考えている。感性が合う友達にも、自分とは対照的だが何故か憎めない友達にも、根底には相応の好意が働いている。そして、この”好意”は二次感情である。

 

例えば、

["優しい”→だから好ましく思う=好意]

だったり、

[”話していて楽しい”→だから好ましく思う=好意]]

だったりする。

 

優しさだったり、話術だったり、知識だったり、そういったものは全て当人の魅力であって、魅力を感じるからこそ”一緒にいたい”と相手は感じる訳です。当人に魅力があるからこそ、相手の中で好意が生まれる。これは恋愛感情の場合でも言い換えることが出来ると思っています。友情と恋情の違いは、相手が恋愛対象内の人物であることを前提として、「誕生した相手への好意→そこから自発的に行動を起こすor起こさない」ではないかと、個人的には思っています。人間としての魅力を土台として、性的魅力が形成される。当たり前のことだけれど、改めて真剣に考えてみると面白いものです。

 

 ここまで書きましたが、現在のわたしには「友達」が一人も存在していません。だからといって、誰にも好意を抱いていない訳ではない。決して多くはないけれど、好ましく思っている方々はいます。しかし、その方たちを「友達」という一つの枠組みの中に入れることは憚られるのです。これは自分自身の、圧倒的な感覚の問題です。”友達”というよりは、”知り合い”といった表現の方がしっくりくる気がする。もっと深く突き詰めれば、「絶対的な固有名詞」といった感覚があります。

 ”知り合い”に関して言えば、[双方の断片的、もしくはそれ以上の事情を”知り合っている”間柄]といった個人的な解釈が先行しているからだろう。「絶対的な固有名詞」に関しては、人間は誰しもかけがえのない存在であって、私の中では「友達の○○さん」ではなく「○○さん」でしかない。これは不変的な事実であって、例えば「○○」が他の人物に代わったとしたら、瞬間的にその事実は崩壊してしまうじゃないですか。「友達の○○さん」の場合、「○○」が他の人物に入れ代わったとしても、「友達」はそのまま機能し続ける場合もある。つまり、「友達」の枠組みを作ってしまうことで代替が可能になってしまう。それってなんだか、とっても虚しいじゃないですか。だからわたしは、「友達」が一人もいないのです。

(とは言いながらも、文章上では”友人”と記載することも多々あるけれど)

 

 わたしは、わたしの周りにいてくれている方達に感謝を述べたい。傍にいてくれるだけで救われることって、たくさんあります。「友達」ではなく、一人の人間として大切にしたい。そして、思いは行動に移さないと形にはならない。

 

 

 少しばかり歪な形になったとしても、笑って許して下さいね。