[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.031 不明確なアイデンティティ

 

 あれ、眠っている間に大麻でも吸ったのか?と思うほどに調子がよい。昨晩はストロングゼロを啜りながら寝落ちしていた。午前5時ごろに目が覚め、気がつけば歯を磨きながら唐突に小室圭氏のことをインターネットで検索していた。そこでまた寝落ちした。よく眠ったことが効果的だったのかと思ったが、睡眠の質は最底辺を這いつくばっていたと思うし、目覚めに関しても脳内にある鐘をハンマーで連打されている様に最悪だった。ストロングゼロを啜りながら寝落ちか、それとも小室圭氏のインターネット検索か、全くもって理由は判明しないけれど、人生において気分や体調は良いに越したことはない。理由などどうだっていい、曇り空に陽が差し込むならば。

 

 今回は、自宅から最寄り駅までの道のりでよく見かけるご老人について記述したいと思う。

 

 その老人と話したことがないからわからないけれど、見た目から推測するに齢70前後だろうか。頭髪は未だ生えそろっており、白髪をキレイに刈り込んでいる。服装はダボついたスウェットを着ていることが多いが、たまにポロシャツなんかを着てお洒落をされている。顔面の造形は割かしベビーフェイスで、ディズニー作品のベイマックスさながらの体型をしており、「思い切り蹴ったらどこまで転がっていくんだろう」と思うほどに愛くるしい容姿をしていらっしゃる。しかし、その体型故に足腰へとかかる負担が大きいのか、一歩また一歩と足を踏み出す度に「痛い!」「痛ーい!」と怒声を辺りにまき散らしている。それは悲鳴ではなく、完全に怒声そのもの。怒っている、めっちゃ怒っている。恐らくその痛みに対して、思い通りに動かない自分自身の身体に対して。時折、階段を昇り降りしている瞬間を目の当たりにすることがあるのだけれど、その時の「痛い!」が他のどの場面よりも声量が大きい。「えっ、フェス?機材無しで野外フェスやってるの?」と思うほどに遠くからでも聞こえてくるもんだから、面白くなってしまう。今では慣れてしまったけれど、初めてその怒声を耳にした時は私の本能が一瞬にして戦闘態勢に切り替わる心のスイッチ音が同時に聞こえた。そして時は過ぎ、その怒声の発生源(老人)が特定された瞬間には、バラついたジグソーパズルがオートメーションで完成していく光景が頭に浮かんだ。怒声と老人が一致した時には「関わっちゃいけない老爺」として自身の中では危険人物にカテゴライズされていたのだけれど、それから何度も目にするようになり、回数を重ねるごとに「こちらへ危害を加えてくる様子は微塵も感じない」と思うようになり、今となってはその思いが確信へと姿を変えている。

 

 その老人はいつも一人で歩いてる。恐らく自宅と思われるアパート(そこから降りてくる姿を度々見かける)はどう見ても一人暮らし用の佇まいをしている。一人暮らしなのかな?寂しくないのかな?と、意味もなく思案する同じく一人暮らしの私がいて、我に返ると脈打つ鼓動が少しだけ早くなる(ちょっぴり寂しかったりしますよね、一人暮らし)。そんな感じで、老人を見守りながら何でもない日々を送っていた。それからしばらく経ったある日、ベイマックス老人と見知らぬ老人が、自宅と思われるアパートの階段に座り込んで将棋を指していた。「なんだ、友達いるじゃん」と一安心している赤の他人完全体とは私のことです。しかも友達といる時は怒声をあげていない、寧ろ静かに二人で会話をしている(怒鳴りながらの対局というのも少し興味があるけれど)。その日を境に、時々同じ光景を目にするようになった。社会人は会社へ向かい、学生は学校へ向かう、そんな忙しない朝の時間帯に階段へ座り込み将棋を指す二人のご老人。文字に起こしただけで微笑ましい姿が目に浮かぶ。そんな姿を横目に会社へ向かう朝も悪くない。そして、一人の時は怒声を上げながら歩みを進めるベイマックス老人。観察すればするほどに興味深く、怒声が聞こえると「今日も元気でやってるな」と嬉しくなる瞬間すらある。人間って面白い、老人も、そして私も。

 

 そんなある日、いつもとは全く違う場所で老人を見かけた。その場所で見かけることが初めてだったし、何よりも30代後半であろう女性と一緒にいる光景にも驚きを隠せなかった。しかも、その女性からめっちゃ怒られている、とにかく怒られ続ける老人がそこにいた。会話を盗み聞きしたという訳ではなく、女性が発する声を単体の音として耳で捉えても「怒り」という感情を容易に察することが出来るぐらいに、お手本のような怒り。「怒り」が二次感情だという話は有名ですが、女性が浮かべる表情、発する声色には「心配」が含まれていた。その瞬間に全てを理解した、彼女は老人の娘なのだということを。いつもブンブンと怒声を振り回している老人が、その場では物凄くショボくれていた。いつもよりベイマックスが小さく見えた。娘さんと目を合わすことなく、俯きがちに「うん、うん、、、」と言っていた。わたしはその光景を目の当たりにして、密やかに「良かった」と思った。この人は一人きりじゃない。人間はそれだけで、たったそれだけで充分なのだから。

 

 前述したとおり、老人は一歩進む度に怒声を上げる。こんなご時世でもマスクをしていないことが多い。そして、歩きながら煙草を吸っていることが多い。彼は歩きながら怒声、飛沫、副流煙を周囲に撒き散らしている訳です。傍から見れば「なんや、あのオッサン」な状態ですが、そんな老人にも友達や家族がいる。当人が死んだ時に悲しんでくれる人がいる、それは即ち生きているだけで喜んでくれる人がいるということです。失って初めて気が付く過去の喜びもあるかもしれない、それでも過去にその喜びが存在しているからこそ、過ぎ去った後の喜びに気が付き、それを拾うことが出来る。他人から見れば迷惑極まりない存在だったとしても、その人に生きていてほしいと願う友達や家族がいるかもしれない。そんな当たり前なことを、ベイマックス老人を通じて勝手に教えてもらいました。人間は”当たり前”を視界から消し去る性質を持っていると思う。そんな”当たり前”に気が付くことが出来る人間に、なりたいと思う今日この頃なんです。

 

 

 ここまで書いてなんだけど、私は一体何を書いてるんだ。仕上げはアルコールを飲みながら行っているけど、記事の議題や枠組みは素面の時に行っているからこれまた驚きだ。当記事に登場する人物相関図に関しては100%推測に過ぎませんので、その点をご理解いただきたい。

 

 何を隠そう私自身、老人がいなくなったら悲しむ人間の一人です。全くの他人に関する文章をこれだけスラスラと書き綴ることが出来るということは、当人にそれほどの魅力が溢れているということ。これからも元気でお過ごしいただきたい。

 

 ”わたしがいなくなった時には一体誰が悲しむのだろうか”。誰かが悲しむ前提で思考を巡らせているけれど、そうでもしないと人生なんてやってられない。”わたしが生きていることによって一体誰が喜んでくれるのだろうか”、ではなく、”誰を喜ばせることが出来るのだろうか”と考える。

 

 一体、わたしに何が出来るというのか?

 果たして、あなたは何を求めているのだろうか?