「我思うから我があるんだと思う?それとも我があるから思うんだと思う?」
コンスキエンティア / 金原ひとみ
また一つ、年齢を重ねることに成功しました。今年度の目標はあるかと問われたので、「文豪になります」と言ったら失笑された。文豪でなくてもいい、物書きを生業としたい。自分が生み出した文章で、金銭を獲得する。その感覚を味わってみたいものです。なんてことを言うと、「ついにやる気になりやがったか」なんてことを思われてしまうのかもしれない。一つだけ言えるとすれば、私は何事に対してもやる気なんてありゃしません。暇だからやっているだけなんです。人間を最短ルートで堕落させる方法は、日常の中を退屈で埋め尽くすことでしょう。何を隠そうわたし自身、人生への退屈を拭えない人間の一人でございます。日々、退屈している。刺激を欲しているんです。来る日も来る日も傍に寄り添う”ヤツ”から逃げる為に、私たちは行動するのではないでしょうか。だからこそ、わたしは本を読みます。だからこそ、わたしは言葉を綴ります。それでもなお、完全に退屈を払拭することが出来ない。いつだって心の中に空虚を抱えている。抱えるその手を放そうと思っても、身体が言うことを聞かないんです。拭えないのなら、手懐けるしかない。その空虚を利用するしかないのではないか。退屈を受け容れ上手く使いこなせる人間が、新たな作品を生み出す。そうやって、世界は形作られていくのです。地球規模で見ればハウスダスト程度だったとしても、存在感を放ち続けたい。他者に何を言われたって構わない、独創的で在りたいと常々考えを巡らせています。
独創的なんてことを言うと、然もご立派なことのように感じるかもしれない。しかし、最近の私は何を生み出すこともしていません。日々を消費しながら生を送っています。そんな私に「おめでとう」だなんて、全く世の中は皮肉なものだと笑えてくる(祝辞は素直に嬉しいです/ありがとう)。自分のことは愛しているけれど、元々自分に価値などあるとは思っていません。かろうじて時間を切り売りして生活資金を得ているぐらいです。その他はクリエイターが創ったコンテンツを消費するだけで、日々に色を感じません。落ち込んで、何とか落ち着いて、また落ち込んでを繰り返す。他人に対しての羨みがあるわけではない、ただ繰り返しの日々が、モノクロームな世界がつまらないだけなんです。渇いた喉へ水を流し込むように、いくら本を読んでも、映画を観ても、音楽を聴いても、何をしても潤わない。ましてや文章など書く気にもなれない。大好きなことを大好きなこととして認識しない自分自身に、ただ慌てふためくことしか出来ません。このままでは駄目だ、というより既に駄目だ。これ以上進行すると、わたしは動けなくなってしまう。今回はそんな危機感から筆を執った次第でございます。
たった数日書いていないだけでも、以前のようには書けなくなっていることに気が付きました。中々思うように言葉が出てこない、浮かび上がらない。何を書けばいいかわからない。そのような焦りを感じながらも、何とかここまで書くことが出来ました。少しだけ以前の感覚を取り戻せた気がしている。改めて継続の重要性を思い知らされた。どの分野においても続けることが何よりも重要で、続けてさえいれば、置いてきぼりにされることはないでしょう。何もしなければ一人ぼっちになってしまう、才能が孤独死する。自身の実体験から、わたしはそのように考えます。
[ある事象を自身の解釈で限りなく言語化する/対象をより深く掘り下げる。]
実はこれが当ブログのテーマです。そんな大々的なテーマを掲げているにも関わらず、最近は自身の精神状態を反映させた文章しか書けていない。全くお恥ずかしい限りです。いま自分が思っている事を、正しい重量のまま相手へと伝えたい。でも、それを伝える為の適切な言葉が見つからない。そんな体験をしたことはありませんか?そういう時はとても心がむず痒くなります。仕事でも、プライベートでも、顔を合わせても、電話でも、LINEでも、Twitterでも、わたし達は日々言葉を使用しています。言葉を学ぶということは、心の表情を豊かにすることだと思っている。言葉の意味や使い方を深く知っていれば、伝える際には適切な表現をすることが出来るし、受け取る際には解釈の幅が広くなる。その反面、相手を傷つける道具として悪用することも出来る。言葉が持つそれら全ての要素をわたしは愛しています。
私たちが死ぬまで使い続ける、死んだあとも残る、精神的な遺品。
それが言葉なのだと、わたしは其れを言葉としてここに残します。
了