[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0302 明るく軽やかな噂話

 

 本人のいない場所で、個人的な鬱憤を言葉に乗せて盛り上がる。

 

 自分はどうも陰口というのが苦手なのだった。陰口を言うのはもちろんのこと、周りの誰かが言っているのを聞くのも苦手だ。なぜか敏感に耳がキャッチしてしまって、幸せではなくなる。自分が悪いように言われる分には全然かまわないのだけれど、誰かが、自分ではない誰かのことをコソコソ悪く言っているあの光景が、どうしようもなく地獄に感じてしまう。

 

 陰口や根拠のない噂話というのは便利なもので、基本的にはその場が盛り上がることが多く、酒の肴としても上手く立ち回る。陰口にまた別の陰口が重なり、性質の悪いジェンガのように絶妙なバランスでそこに存在する。いつ倒れてもおかしくない、彼らはスリルを味わっているのだろうか。だとすれば、愚か者だ。積み上げていけば、きっといつかは倒れる。倒れた時には、関係性が終わっているだろう。それだけでなく、関与していない周囲の方からの信頼も失っている。誰かのことを悪く言うことで、良く思われることなど、あるはずがないのだ。

 

 小さな頃から、陰口が苦手だった。学生時代、そういう雰囲気になった時には口を閉ざすようにしていた。それが成長と共に環境に飲み込まれ、少しずつ陰口を展開するようにもなり、「まぁ人間だしそんなものでしょ」ぐらいに考えていました。ここ数年、改めて陰口という行為の愚かさを思い知り、自分自身を見直している所存です。だれかのこと、悪く思うことは仕方がない。わたしたちは人間であり、自分以外の”誰か”はもれなく全員他人なのだ。相性が悪いこともあるだろう。生理的に本能が受け付けない人もいるだろう。例えば、職場や学校にそういう人がいて、同じ空間で過ごさなければいけない場合、日々募るストレスを、陰口として発散したくなる気持ちは理解できる。でも、それでも、そんなことをして一体何になるのだろう? 果たしてそれで綺麗さっぱり清算できるのだろうか。陰口は本人の耳には届かないままかもしれないけれど、陰を吐いている自分自身の鼓膜にはガンガン響いている。一説によると、人間の脳は自分と他人を区別することが出来ないらしい。よって、誰かを悪く言うことは、自分のことを悪く言うことでもあり、その逆もまた然りなのだった。いつだって側にくっついている自分が、言葉の重要性を一番理解しているらしい。

 

 最近、「陽口(ひなたぐち)」という言葉を目にした。本人のいないところで、その人を褒めたり、感謝すること。陰口の対義語として、誰かが生み出した造語とのこと。自分はこの考え方が好きで、こういうの、もっと広まればいいのになぁと思う。「相手の良いと思った部分は、相手のいないところで存分に褒め称えるべし」みたいな一文を、どこかでも読んだ記憶がある(うろ覚え)。そう、陰陽の関係無しに、本人のいないところで言い放った言葉は、流れに流れて本人の耳に辿り着いたりするものだから。それならば、聞いたときに少しだけ嬉しくなるような、そんな言葉をポツポツ落としながら歩いていきたい。鬱憤を溜めたままにしておくのも心に良くないから、全く関係性が無い遠い知り合いなどに、話しを聞いてもらうぐらいが丁度良いのかもしれない。鬱憤を陰口にして、周囲を巻き込まないように心掛けたいものです。

 

 こんなこと書いてると、偽善的なんて思われるかもしれない。自制が難しい時、理性に歯止めがかからない時などには、既に繰り広げられている陰口にノッてしまうこともある。その度にわたしはとても後悔する。何事も完璧にするということはとても難しくて、その領域に達するまでにはまだまだ時間がかかりそうだ。それでも、日々心掛けることによって、随分と自分を律することが出来るようになった。

 最近、このように思うのです。陰口で盛り上がっている人は暇なのかな、って。その場にいない誰かの話題でしか盛り上がれないのかな、って。そういうのって、何だか虚しいと思いませんか? わたしは心の中がとても悲しくなります。そして、この文章も陰口の一種として扱われるのでしょうか。だとすれば、もうわたしは、なにを書けばいいのかわからない。