[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0240 いくつかの輝き

 

 ”仲間を大切にしなさい”ってことを目にしたり耳にしたりする機会が多くて、「そうなんや」程度の空気よりも軽い感覚で身体をすり抜けていたんだけど、最近あまりにも仲間という言葉が入ってくるものだから初めて立ち止まって考えてみる。

 

 仲間ってなんだ?共同体の一部分とかそんなものだろうか。同じ夢を目指して共に歩む親しき人物とかだろうか。漫画ワンピースで例えれば、麦わら海賊団に属する一人一人が主人公ルフィにとっては仲間となるのだと思う。彼の目的は『海賊王に俺はなる』ことだろうけど、他の仲間たちも同様に海賊王になりたいのだろうか。原作を読んでいない浅はかで限られた知識を元に書いているから、主人公以外の夢だったり目的は存じ上げていない。そもそも海賊王って何なんだ、キチンと定義付けされているのだろうか。まぁそんなことはどうだってよくて、ここでは同じ船に乗り共に進む人間たちを仲間と総称したい。

 

 その程度のザックリとした感覚でいいのかな、言葉の重みとして弱い気がする。”友達”と呼ぶ感覚と同じで、本人がそう思えれば友達だったり仲間だったりにカテゴライズされてしまうだろう。「いやいや、僕はきみのこと友達だなんて思ってないけどな」ってことは生きている中で結構あるから、仲間の概念も一方通行の場合が多分にあるのかもしれない。

 

 そう考えた時に初めて、自分には仲間と呼べる人がいないことに気がつく。友人や知人、良くしてもらっている恩師はいるけれど、決して同じ船に乗っている訳ではなく、間違いなく確実に自分とは異なる道を進んでおられる。前とか後ろとか右とか左とか、その程度では表せなくて、自分の場合は地面をスコップで掘り続け下へ下へと向かっている感じがある。自分が異質だとか相手が特別だとか、なにが順調でなにが不調か、そんなことは甚だ馬鹿らしい。皆、それぞれの道を選択して、様々な方法を駆使して進んでいる。時には立ち止まったり、分岐点まで引き返したりして、それでも歩みを止めることなく、僕たちは歩いている。素晴らしいことだ、あなたもわたしもこの世界も。だからわたしは、助けになれるなら喜んで手を取り合いたい。でもそれは、だれかのことを仲間だと思っているからではなくて、ただ純粋に相手の人生を尊重しているから。自分が歩むことのなかった、その人ならではの道のりが、時には苦しみながら進むその姿が、好きなんだ。だからいつだって、わたし達が同じ船には乗っていないことを明確に感じている。

 

 大切にする仲間はいないけれど、大切にしたい方達はいる。それでも、僕が大切に想う気持ちを”仲間”なんて言葉に介入されたくはない。そこだけは不可侵領域として守り抜きたい。名付けられた時点で分類の対象になってしまうから、仲間でも友達でもないこの想いに、名前をつける必要はないと思っています。

 

 

 船がなくたって、一人ぼっちでもいいじゃない 世界の中に想う誰かが生きているのなら、それだけでわたし達は歩いていける。