[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0225 自由の代償

 

 自由になりたいと人は言う。わたしも同じことを思っていた。

 

 自由を得る為に部分的な不自由を選択しなくてはいけないのなら、その自由に本当の意味合いは含まれているのだろうか。そもそも自由ってなんだ?経済的、精神的、時間的、人間的、音楽と同じで自由にも様々なジャンルがある。もしくはその総称を”自由”と表現しているのか、それとも単なる状態に過ぎないのか、わたし達は自由になりたいと心の中で念じているのに、その実態をなにも知らないままでいる。

 

 ”なりたい”と願う心は、いまはまだ"なれていない"現実を浮き彫りにする。自由を願えば願うほど、今この瞬間の不自由を証明してしまう。

 

 好きなことが出来て、会いたい人に会いに行けて、食べたい物が食べられる。本当にわたし達は自由ではないのだろうか?程度の差はあれど仕事があり、屋根がある家で眠れて、公園に行けば木々の温もりを感じられる。

 

 わたし達は既に自由を手にしているにも関わらず、それを感じようとしないだけだ。手の中で大切に温めておいた自由は、日常の些細な苛立ちからくる瞬間的な"力み"の連続でペシャンコになってしまう。苦しいことがあるなら足早に逃げてしまおう。その原因が仕事なら、とっとと辞めてしまえばいい。無責任でいい、自分の替えなんていくらでもいるんだから。ずっと無理を続けていると、心まで圧迫されて自分自身が潰れてしまう。わたし達は社会の歯車に過ぎないけれど、決して人間の歯車ではない。社会的には替えが効く、けれども自分という一個人の存在はあなただけにしか務まらない。あなたはただの歯車なんかではなく、一個人としての”本体”なのです。だから、苦しくなったら身近な誰かに話しを聞いてもらって。何も解決しなくても、『何も解決しなかった』という結果が残るから。話せる相手がいないのなら、そのお話をわたしに聞かせてほしい。

 

 何の縛りも制約もないことだけが自由ではない。行き先が定まっているからこそ、羽ばたくことができる。羽ばたく翼があるからこそ、空へとびだすことができる。どこまでも空が広がっているからこそ、わたしたちは自由を感じることができる。行き先がわからなければ、この広すぎる青空の中で迷子になる。羽ばたく翼が折れていたら、空は羨望へと姿を変える。この青空が失われれば、わたし達は自由を感じることなく生涯を終える。

 

 全ては繋がっている、この空の下でわたし達は生きている。幸いにも空は存在していて、決して美しくはないかもしれないけれど、わたし達には翼がある。それだけで充分じゃないかと今なら思える。行き先がわからないというのなら、会いたい人の元へ飛んで行けばいい。会いたい人がいないというのなら、この場所に帰ってくればいい。わたしはいつでも待っているよ。

 

 生きている限り、あなたはどこにでも飛び立つことができる。時折、誰かが会いにきてくれることもあるかもしれない。その大切な人と抱擁を交わすことが出来る。一体それ以上の何を求めるというのか。それでもまだ不自由を主張し続けるというのなら、もうその不自由ごとあなたの世界を愛してあげる。だから安心して、羽ばたいて。旅路の中で不安になったり、ちょっと疲れたりした時には、いつでも私の元へ立ち寄ってほしい。そして互いに少しだけ楽になれたなら、手を振り別れの言葉を交わしましょうね。

 

 わたし達は自由に飛んで行ける、あの人の元へ。