[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0226 夜の中で

 

 仕事からの帰り道、何となく直帰することが出来なくて、昔恩師によく連れていってもらった居酒屋に立ち寄ることにした。普段乗ることのないJR西日本、電車を乗り継いで最寄り駅に到着する。改札をくぐり抜けた途端に世界が少しだけ広がるようだった。それと同時に、少しばかりの郷愁が胸中を支配する。外の世界は予報には無い雨が降っていた。

 

 居酒屋の暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ」とマスク姿の店員さんが迎えてくれる。それだけでありがたいなって思える、本当に。左手人差し指を一本立てながら「一人です」と孤独を伝える。通されたカウンター席は思いの外広くて、ソファが設えられていた。最後に来た時はこんなの無かったのに、過去になりつつある時間の流れを感じた。

 

 店内にはスーツに身を包んだ3人組のサラリーマンがいた。大きめの声量で騒ぐ3種類のスーツを背後に感じながら、喉を駆け巡るビールに感動する。シンプルに美味い、もうこれだけでもいい。後におつまみやら一品料理をいくつか注文して、ビールやらハイボールを飲みながらボーっとしていた。何もせず、一人で思索に耽る時間が好きだ。世の中に忙殺されてしまいそうになる現代の流れ、だからこそ考える時間が無いとわたし達は生きていけない。生きる為に考えるのか、考えるからこそ生きているのか、それについても考えてみる。思考がカチコチに固まってきたら、アルコールでほぐしてあげる。いいな、こういうのも中々いいな、これからも定期的に続けようと思った。

 

 その日はたまたま小説を持ち歩いていたので、試しに本も読んでみた。お店で酒を飲みながら読書なんて、ほんと何年振りだろうか。二十歳になりたての頃は背伸びしてよくやってた。お酒を飲みながら、煙草を吸って、言葉を追うこと、この1セットこそが文学だと思っていた。懐かしくも痛々しい若さ。気が付けば煙草はやめていて、気が付けば過剰飲酒になっていて、気が付けば一人でお店にいくことが無くなった。ヤケになって一人飲みすることはあっても、楽しく終わることが出来なくなっていた。あの頃と変わらないのは、一人ぼっちであること、そして本を読んでいること。大分とお酒には強くなったが、随分と心の方が弱くなったように思う。

 

 そんなことを考えながら物語の世界へ没入していると、全くお酒が進まない。何を追加注文する訳でもなく、ただ店内に長居することに対して申し訳無さを感じる。本を読んでいる時は物凄く集中してしまうから、自宅やカフェでゆっくり読み進めるのが自分には合っているかな。そう思った時には集中力が取り戻せなくなっていて、ポスリと音を立て本を閉じた。会計の際に「ごちそうさまでした」の一言を伝えて、店を後にした。

 

 

 外に出ると雨はやんでいた。夜風が気持ち良かったので歩いて帰ることにした。夜道を歩いているその瞬間が好きだ。自分が夜の一部分になったような、そんな気持ちになる。思わず歌いだしたくなるし、ちょっとばかり踊りたくもなる。夜から逃れることばかり考えるんじゃなくて、夜と共存して生きていけばいい。敵とか味方とかじゃなく、自分の一部分として真夜中と関わっていけばいい。そんな考えが頭に浮かんだ、そう思わせてくれる心地の好い夜道だった。

 

 人通りの少ない路地をひたすらに突き進んでいくと、浜辺に打ち上げられた人魚のように、そこに人間が倒れ込んでいた。倒れ込んでいるというよりも項垂れている、項垂れているよりも転がっていると表現する方が適切かもしれない。完全にアスファルトと同化していた。もぞもぞ動いていたので死んではいないことだけが確認出来た。

 

「大丈夫?」

ーなんとなく、この人には敬語を使わない方がいい気がした

 

「うん、大丈夫」

ーやっと表情が見えた。

40代半ばぐらいの女性、夜道でも肌が透き通るように白い

 

「酔っ払いかい?」

 

「ううん、酔っ払ってない」

 

「どうしてこんなとこにいるの?」

 

「しんどいの、疲れちゃった」

 

「心が?」

 

「うん、そうね」

ー沈むようにゆったりとした口調、幼過ぎる言葉遣い、

微笑んではいるが、今にも消えてしまいそうな表情、

わたしはその何もかもに見覚えがあった

 

「この近くに住んでるの?」

 

「家はあそこよ」

ー指で示しながら女性は言う

 

「じゃあ家に帰りよ、ここじゃあ風邪引いちゃう」

 

「いいの、帰りたくないの」

 

「そうかぁ、帰りたくないんやな」

 

「優しいのね」

ーそう言って朗らかに笑う彼女が綺麗だった

 

「優しいでしょ?優しいのよ」

ー全てを台無しにする酔っ払い

 

 

「じゃあ、僕はもう行くね」

 

「うん、ありがとう」

 

「ほんまに、風邪引かんようにね」

 

「バイバイ」

 

 互いに小さく手を振り合いながら、再び夜の中を歩いた。隣に腰かけてお話しようかと思ったんだけど、どうやら彼女は一人を望んでいるようだった。どうしようもなく苦しい夜がある、一人になりたい夜がある。そんな時に、一人と一人が出会うことがある。学生の頃から夜道での出会いを多数経験してきた。みんなどこか物悲しそうなんだ。だから放っておけなくて、いつも声をかけてしまう。その人を救いたいなんて気持ちは一切ない。ただ単純にお話がしたいと思うのです。それはいけないことでしょうか?相手にとって迷惑なことなのでしょうか?。

 

 もしかすると今日にでも彼女はいなくなってしまうかもしれない。例えそうだとしても、そうじゃなかったとしても、私は彼女の何もかもを知らないまま生きていて、特に知りたいとは思わない自分がいて。名前も知らない人、数分話しただけの人、ただそれだけのことなのに、胸が温かくなる気持ちになります。記憶の中に閉じ込めておきたい夜がある。彼女と出会えてよかった。彼女と私が一人ぼっちで、本当によかった。

 

 

 素敵な夜をお過ごしください、お元気で。