[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.000 生きていて、ごめんなさいね

 

 馬鹿と馬鹿が交尾をして、新たな馬鹿が生まれる。生まれた馬鹿が違う馬鹿と交尾をして、更なる生命=馬鹿を生産する。そんな負のループを断ち切りたくて、馬鹿は馬鹿なりに考えてみる。種子を残さない、それだけ、ただそれだけでいい。私のような馬鹿はひとりで死んでいくぐらいが、ちょうどいい。

 

 縊死。最も堅実に絶命できる方法。「最近飲み過ぎてるなぁ」ぐらいの感覚で、散り方を思考する。そんな時間が好きで、その時間に生かされている感覚さえある。"現在を生きろ"と世間は声を揃える、"未来で死ね"と先延ばしにしてばかりの希死念慮が所在なさげに。意味のない"明日"、価値のない"過去"、名ばかりの"現在"、そんな朧げな現状だけがわたしの生欲を掠め取っていく。悲しいなぁ、虚しいなぁ、なんてぼやきながら、夜の中を侘しさと共に歩む。

 

 果てに辿り着く絶壁はいつも同じで、そこに温かさは存在していない。優しいってなんだ?凄いってなんだ?素敵ってどういうことなんだ?。凡ゆる概念が崩壊してしまって、然るべき感情反応が失落している。それが良いとか悪いとかそういうことではなくて、ただ優しさを灯した帰り場が欲しいだけなのかもしれない。

 

 生きる為にはお金が必要で、誰かと会う為にはお金が必要だ。愛する人と会うにも、気の知れた仲間と会うにも、見ず知らずの人と出会うにも。最近、会うことによってお金を消費しなくてもいい関係性を"家族"と呼ぶのではないかと考えている。無一文で会っても、何とかなるというか、そういった感覚的なこと。どうやっても、どう頑張っても、他人には気を遣ってしまうし、"他人"と判断しているからこそお金を提出してしまうのだろうか。自分が「子」の前提ではあるけれど、実家に帰って、金銭が発生せずにご飯を作ってもらえるような、そんな"家族"を未だに望んでいる。勿論、この思考が過ちなのは理解している。そんな自身の理解さえも、私の意志で無視しているのだと思うと、何だか少し笑えてくる。

 

 それでも、どうしても、この文章を書いている私は生きていて、その不変的な事実がどうしても苦しい。どうして生きてるんだろう?何故生きてるんだろう?が解決しないからこそ呼吸を続けている節はある。様々な人間の死生観を感じ取りたい。それを取り入れた上で文章を、言葉を綴りたいと思っているんだ。

 

 結局のところ、僕は書き続けしかないのだろうと思う。書き続けることでしか、人生を感じることが出来ない。死にたい、ずっとずっと死にたい、けれど、その思いをどうしても文章として完成させたい。"死にたい"よりも"書きたい"という想いが勝るからこそ、こうやって意味もなくブログを書いているし、何とか生きている。「死」を書く為に、こうやって今日を生きている。

 

 懐かしい香りがする。14歳に過ごした初夏、肌を突き刺す様な西日から逃げる様に閉じ籠る空調を整えた自室、そこは実家。その中で焚いた一本のお香が鼻腔を満たした感覚がそのまま蘇るように錯覚する。当時はなにも考えていなかった。こんなにも虚しい未来が待っているなんて、思う余地も無かった。それならば、せめて生きている間は自由で在りたいと思う。死んだその先は自由か不自由かそれとも完全なる無なのか、そんなことは誰にもわからない。だからこそ、それまでは自由を願い続けるんだ。

 

 

美しさなんていらない、ただ青空を舞うだけ。