[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0323 質素に散れば

 

 ちょっと頭のなかがごちゃごちゃとしてきた。落ち着いて周りを見渡してみると、部屋には幾つかの物が散乱しているのだった。元々、所有物が少ない方ではある。動き始めれば数分足らずで部屋のなかが片付くのだけど、なかなか心に馬力がかからない時、ありますよね。シンプルに動きたくない。これは怠惰なのではなく、掃除や整理整頓に割り振るエネルギーが残っていないのだ。心が乱れるから部屋のなかも乱れる。部屋のなかが乱れていると、人間関係まで乱れてくる。何に関しても「乱れ」というものは、その人が本来持っている優しさを忘却してしまう。もっと単純に暮らしたいね。いつだって自分らしくありたいと願うことが、乱れを整える唯一の方法なのかもしれない。

 

 なんとなく生きている間に、いらないもの、必要でなくなったものが、随分と増えた気がする。思い返せばこの一年、日々に対して積極的ではなかったな。「いつ終わっても構わない」という思いは変わらないままだけど、それでも、過去の自分は平凡な一日を廃棄し続けていた。今日の自分は駄目だ、早く明日になれ、明日からリセットする。幾度となく同じことを繰り返している内に、この一年が終わろうとしている。

 

 駄目じゃない日なんて、一日もなかった。自分を受け入れることが出来なかったのだな。人は自分と向き合うことを恐れている時、欲求を満たしてネガティブ感情を解消しようとする。買い物依存症に陥る人もこのパターンが多いとのこと。自分の欠けた部分(そう思い込んでいる)を、物質で埋めようとするんだ。物を買った時には脳の快楽物質であるドーパミンが放出されるから、欠けた部分が埋まったかのように錯覚する。そんなことしても、現実はなにも変わらないのにね。

 

 新しいものを買ったり、美味しいものを食べたり、お酒を飲んだり。それらは生活に彩りを与えてくれることのように思えるけれど、日々を惰性で生きている人間がこれを行えば、全てが心の乱れに繋がってしまう。なによりも、惰性で短期的欲求を満たしてばかりいると、自分にとって本当に大切なこと、必要なことに、お金や時間を費やせなくなってしまう。遠くを見ることが出来なくなってしまうのだな。精神的近視、メガネのレンズには亀裂が生じていて、すぐ近くにあるものばかりで心を満たしている。

 

 やがて、お金を使ってもなにも埋まらなくなり、常に満たされていない状態に陥る。最早ドーパミンは放出されない。なにをやっても楽しくない、生きていたくない 、 そして「死にたい」となる。これさえあれば満たされる、人生が動き出す、と期待して買った物はクローゼットで静かに眠っている。ちゃんと時間をかけて考えて、それでも必要だと判断した数少ない物たちは、毎日わたしに寄り添ってくれている。結局のところ、そんなもんなのだ。物質で内面を埋めることはできない。ただほんの少しだけ、自分の魅力を引き出してくれる程度だ。どれだけ逃げ回っても、変わりたければ自分自身と向き合う時間がいる。そうする為には、余計な情報や雑念を取っ払う必要があって、心の拠り所である自宅を整えることは、自分に対する最低限の礼儀であると思うのです。

 

 必要な物、少しだけ持って、静かに生きていたい。死んで、自分の世界が消えたあとには、全ての所有物から意味が奪われる。わたしが愛したもの、必要としたもの、大切にしていたもの。それを誰かに引き取ってほしいとは思わなくて、出来ることならすべてを廃棄してほしい。もうこれ以上はなにもいらない。自分にはすべてが揃っているというこの感覚が、何よりも精神を和らげてくれる。所詮、あの世にはなにも持っていけないのだから。ただわたしたちは、無になる為に散っていく。大切なもの、すべて現在のなかに残したまま。