[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0288 指差し確認

 

 生きているだけで何かを失っている気がして、慎重にならざるを得なかった。それは心拍数と共に抜け落ちていく。正体はハッキリとわからないけれど、わたしはただ漠然とした喪失が恐ろしかった。

 

 何かを手にした時には、喜びと同時にそれを失う可能性が生まれる。だから、人間関係も、物質も、多くのものに触れることが苦手なのだった。愛情を注いだ、そう思い込んでいる対象物が何らかのキッカケで消滅してしまった時、ガラスの割れる音が鮮明に鼓膜に響き渡る。だから、多くのものを手にしたくなくて、平手を横に振るばかりの人生でした。

 

 家から外に出る時も、所有物を紛失してしまいそうな気がするので、必要最低限の物しか持ちたくない(そもそも、荷物が増えれば増えるほど脳味噌が圧迫されるようで苦しい)。iPhone、ハンカチ、クレジットカード、この3点があればそれでよろしい。本当はiPhoneも持ち歩きたくないのだけれど、現代においてそれは幾らか困難である。旅に出かける訳ではないので、それでなにも困ることはなかった。以前は夢がたくさん詰まったバッグを持ち歩いていたのだけれど、一体なにが入っていて、なにが入っていないのか、帰宅した時にそのすべてが揃っているのか、そういうことを考えるだけで脳味噌がパンクしてしまって、気が付けばあまりカバンを持たなくなっていた。

 

 特定の誰かに向けて文章を書く時も、色んな方向に思考が散らばる。本当にこの言葉は、自分が伝えたい意味として文体上で機能しているのだろうか。仮に自分の不手際で齟齬が起きてしまった場合、一体どうやって訂正すればいいんだろうか。上手く伝わっていないことに互いが気付かないまま、そのまま時が流れ過ぎてしまうかもしれない。そういうことを考えれば考えるほど、滑らかに生まれた言葉たちに疑問を抱き、ただただ鮮度だけが失われていく。考えすぎだとはわかっているのだけれど、どうしても頭から離れない思いがあって、自分でもそれにうんざりしてしまう。

 

 形の有無に問わず、あらゆるものに不安を感じたり、その為に過度の確認を行ったり、「そういえば幼い頃からそういう一面はあったよな」と大人になった少年は思うのだった。気質としての不安感情が少しだけ悲しい。そして、わたしはその悲しさと共にこれからを歩むのだろうな、という一種の諦念すらある。わたしはこころの中にもう一人の自分を飼っていて、事ある毎に「考えすぎやろ」「全然大丈夫やって」「ごちゃごちゃうるさい、早よせえや」のような関西弁が頭の中に飛び交う。その声に従うことが正しい、心の安寧を獲得する最短ルートなのだろうけど、それでもやっぱり苦しくて思い悩んでしまう。いっそのこと、関西弁が自分自身になってしまえばいいのに。とは思ったものの、もう一人の自分は楽観的で無気力な自由主義者の為、それは現在の自分とは大きくかけ離れている。そうなると、こうやって文章を書く事もなくなり、書物を読み漁ることもなく、音楽に感動することもないのだろうな。大切な人と会話をして、一喜一憂することも出来ないのだろうな。会話を深くまで愛することを、忘れてしまうのだろうな。

 

 そう考えると、産まれてからずっと側にいる現在の自分も悪くないと思える。あの人みたいになりたいという理想はいつまで経っても叶うことはなくて、そこに在るのは等身大の自分自身だけなのだ。指差し確認的に自分の足りない部分ばかりを見つけてしまうことも、それを何度も何度も確認してしまうことも、それ故に不安に包まれてしまうことも、現在の自分を形作っているすべてがそのままで正しかった。だからもう、指を差さなくても大丈夫。これと決めた道を示さなくても大丈夫。なにかを手にすることも、それを失うことも、もう二度と触れられないことも、すべてはこの世の道理であって、自分にはどうすることもできないままだ。だから、人差し指を折りたたんでも、きっともう大丈夫。一人で悲しまないで、そのままのあなたを愛してあげて下さい。