[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0289 自己破壊の末に

 

 何となく身体がフワフワする、その上ものすごく眠い。職場で熱を計ったが36.5度と平熱であった。全然平気で動けたため、浮かぶ脳みそをおさえつけながら仕事を続行した。明日が休日でよかった。一日ゆっくりと寝ていましょう。関節が痛む気がするけれど気のせいでしょう、食欲だって多いにあるのだから大丈夫。今晩はぐっすりと眠れそうだ。

 

「冷たっ」

 

 真夜中、大量の発汗と共に目が覚めた。こりゃあ完全に発熱しているな、とは思ったのだが、あいにく我が家に体温計は存在しないのだった。まぁ大丈夫大丈夫、明日一日ゆっくり休めば快復するでしょう。汗が染み込み漆黒を浮かべた黒い寝間着を新しい清潔へと着替え、熱い身体を横にして再び眠りについた。

 

 という一連の流れを三度ほど繰り返した。いよいよ着替えのストックもなくなった頃、カーテンの向こう側には朝が広がっていた。これはもしかするともしかするかもしれない。遠くにあったスマートフォンを何とか手繰り寄せ、発熱外来の予約を取った。

 

 コロナウイルスとインフルエンザの2種同時検査を希望した。便利な世の中である。わたしが昨年からお世話になっている発熱外来では、病棟の外に設置された簡易的な隔離スペースで検査が行われる。もちろん、院内には他の患者さんがわんさか待たれていて、その隔離スペースで検査を受けてから代金を支払うまでの間、中々に待ち時間が発生するのだった。この時間が病人にとっては耐え難く苦痛。コロナの時は本当に座っていることすら不可能だったので、泣きながら壁にもたれかかったりジタバタしたりしていた。人間、余裕がないと見栄とかいう概念がどこかに吹き飛んでしまうのだろう。約一年前の、あの時のわたしは間違いなく芋虫に近い生物だった。

 

 話しがずれてしまったけれど、結果的に「インフルエンザA型ですね」とのことだった。先生は丁寧に検査キットに刻み込まれた”A”を指し示す青線を見せてくれた。幸い、コロナは併発していなかった。確かに苦しくてしんどいのだけれど、コロナウイルスの苦しみに比べればなんてことはなかった。咽頭にある程度余裕があるため飲食は楽々行えるし、まぁある程度耐えられるなという感じだった。このぐらいならまだいけると思っていた発熱は、病院で検温をすると「39.9」と表示された。その数値を見た瞬間、身体が少し重くなった気がした。

 

 自分でいうのもなんだけど、自分は中々に身体が丈夫なほうだと思う。基本的に普段は風邪も引かないし発熱も起きない。ただ、数年に一度のペースで大病を患うという特性を持っていて、もっともっと若齢の頃は手術やら入院やら、影でこっそりとやってきたけれど、最近は割とずっと平気なのだった。病気レベル?としては昨年患ったコロナがここ数年では一番死に近かった印象がある。それ故に今回のインフルエンザは完全に油断が招いた惨敗だった。そして、敗因は明らかになっている。恐らく、二日酔いの大量嘔吐で免疫力が大幅に削がれたこと、繰り返された暴飲暴食、行動量の急加速化、それらが重なって流行中のウイルスを手招きでよろしく迎え入れてしまったのだと思う。

 

 健康を損なってはじめて、これまで側にあった健康を思い知る。たぶん、幸せとか不幸も似たようなもので、多くの人間がこの過ちを乗り越えて心を成長させるのだろう。「自分は何度同じことを繰り返すのだろうか」って感じのことをつい最近も書いたような気がするな。死にたいと思っていたり、もう終わってしまえと願っていても、身体はこんなにも必死に生きようとしているではないか。心と身体は繋がっているとはよく言ったものだけれど、そうなのだとすれば、本当は心のどこかで生きたいと呟いているんじゃないか? これまでその声が聞こえなかっただけで、もしくは聞こえないフリをしていただけで、自分の中には、いまもずっと声を上げている一部分が存在するんじゃないか? そういうことを考えてしまって、最早眠れなくなって、そろそろ腰も痛くなってきて、机に向かって言葉を吐いている所存です。

 

 生きていくって難しいよな。家族がいても、恋人がいても、誰もいなくても、やっぱりその人ならではの苦悩がある。その中でどう折り合いを付けて生きていくか、最早折り合いをぶっ壊して唯我独尊を貫いてしまうのか、苦悩と手を繋ぎ共に落下することを善とするのか。 過去に友人とそういう話しをしたことがあります。体調を崩してベッドに横たわっている時、いつまで続くのか先が見えない短時間の中で、ふとこういう話しを思い出すことがある。きっと、このまま何となく治って、また何となく生きて、その内生きることの有難みを忘れてしまうんだろうな。また、いなくなりたいと願ってしまうのだろうな。それでよろしい、人間の中でもとりわけ私はバカな方なので、痛みを伴わないと、側にある大切なことを忘れてしまうのです。

 

「すべては自分にとって必要なことで、あなたがそれを乗り越えられると信じて神が試練を与えている」ってどこかで見聞きしたうろ覚えなのだけど、もしそれが真実なのだとすれば、神様というのはとても残酷な概念だと思いませんか?