[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0290 静けさを、知る

 

 先日、共通の知人の集まりがあり、5人で食事をしていた時の話し。

 

 その内の一人が海外から旅行に来ている方で、食事以外のほとんどの時間をスマートフォンを使い動画撮影していた。「それどうするの?」と問いかけると、YOUTUBEにアップロードしたり、ブログの記事に使用するとのこと。聞いたところによると、彼は現在ブログの広告収入のみで生活を構成しているらしい。「マジか、めっちゃすごいやん」ストレートに本音が出た。以前あった時は定職に就いていたはずだが、そういうのはもう全部やめてしまったらしい。「マジか」もうこれしか言えなかった。たぶん、このマジかも通じていないのだろうなと思いつつも、自由な彼の生き方を心から応援したいと思った。

 

 そんな彼の現状を聞いて、その場にいる全員が沸き上がる興味を隠すことなど出来なかった。怒涛の質問責め、決して流暢とはいえない日本語での返答、さらに重ねての質問、質問、質問。ごめんね、と思いながら自分も控えめに質問をしていた。彼もまんざらでもない表情を浮かべている。すごく丁寧に説明をしてくれて、結論としては「SEOを制するものがブログを制する」ということを教えてもらった。現在はその対策をしていて、更なるアクセス数アップを目指しているらしい。やっぱりプロは違うよね。自分なんてそんなのガン無視、書きたいことを書いているだけだから、そりゃあアクセス数も伸びないよね。なんていう感想をコッソリ胸の内に隠しながら、彼の向上心に賛辞を送った。

 

「それに比べて、この子はほとんどスマホを見ないんよね」

 

 会話の流れからこちら目がけて弾丸が飛んできた。「うん、あんまり見ないと思う」と罪を認めた原始人は軽く話しを流そうとするも、「本当に見ないよね」「だからいつも返信めっちゃ遅い」「そういえば、私この子がスマホ触ってるところ見たことない」等々、悲鳴にも似た現代の嘆きが食卓を飛び交う。「そういえば今日もスマホ持ってきてないや」約束の集合場所に行けば問題がなかったので、当日もスマホを持参していなかった。獣声が勢いを強める、なぜか私はドン引きされていた。「逆にみんなスマホでなに見てるの?」と問いかけると、X(旧Twitter)、Instagram、Tiktok、YOUTUBE、等々だった。そのままSNSの話題に転換して逃げ切れるかと思ったその時、一人だけ目を星空のように輝かせている人がいた。

 

「神様だ......」

 

 海外ブロガーは口から言葉がこぼれるように呟いた。「えっ?」4人が声を揃えて聞き返す。

 

「すごい、あなたは神様だ!」

 

 丁寧にこちらを見つめながら再び言葉が降ってくる。目力が眩し過ぎて即座にサングラスが欲しくなった。「じゃあ普段はなにしてるの?」と聞かれたので、「本読んだり、運動したりしてる」と伝えたところ、「すごい!」と大きすぎる声量で解き放たれる。「いやいや、寧ろあなたは仕事柄どんどん見た方がいいでしょう」と言ったんだけど、話しを深堀してみたところ、職業柄日々長時間インターネットに浸かり切っているからこそ、ちょっとなんだか疲れてしまっているらしい。スマホを見ないように、インターネットを見ないように心掛けてもどうしても気になってしまって、結局は数分足らずで見てしまうんだと弱弱しい声で彼は日本語を吐いた。

 

 やっぱり、人にはその人なりの地獄があるのだな。どうすればなるべくスマホを見ずに過ごせるのか教えてほしいと言われたので、できる限り細かく分解して説明した。

 

・そうはいっても20代前半までは依存気味だった

・ある日を境に嫌気が差してSNSなどをやめてしまった(現在は時間を決めてやってる)

・電話以外の通知機能をすべてオフにした

・スマホを持ち歩くことに疑問を持つようになった

・無ければ無いでさほど問題がなかった

・デジタルの時間をアナログに置き換える

・意志力より仕組みづくりが大切

・インターネットは利用するが、必要な作業はパソコンでする

・あくまで”使う側”の立ち位置を譲らない

・上手く使えば、人生の質が良いものとなる

・便利さに飲み込まれない為に、時には不便を愛する

 

 もう最近ではどこを見渡しても皆片手にスマートフォンを握っている。歩く時もスクリーンに釘付け、ましてや自転車を漕ぎながら見ている人だっている。皆が皆そうではないにしろ、どうして世の中はこうなってしまったのだろう。いつでもどこでも写真を撮ったり、一緒にいる時でも互いが各々の画面を見ていたり、ご飯を食べる時も小さな画面の中で咀嚼を行う。他人がどうこうするのは自由だけれど、風景の一部分として視野に入られるだけで少し息苦しくなるのだ。これが少数派だということは理解している。あまり共感を得られることでもない。相手に指摘をしても反感を買うだけなので、慎ましくコッソリと距離を取るしかないのだ。

 

 インターネットには様々な価値観や意見が散乱しており、自分が美しいと思っているものが批判されていたり、綺麗なものが汚い言葉でゴミ塗れになっていたりして、自分の中のイメージや価値観が揺らいでしまうことがある。欲しくないものを欲しいと思わせられたり、好きでもないものを好きと錯覚させられたり、負の魔力が存分に溢れている。もうそういった何もかもに疲れてしまった。自分が信じたいものを信じる力が、どんどん脆弱になっていく感覚がある。今回の海外ブロガーのように、”なんとなく疲れた”となる気持ちも大いに共感できる。もう限界なのだ、我々人間というOSには。

 

 

 最後までその話しで持ち切りになり、その会はお開きとなった。「じゃあね、またこっち来たら一緒にご飯たべようね」と伝えると、「来年、帰ってきた時には神様に近づけるように頑張る!」と意気込んでいた。最早わたしは名前で呼ばれなくなっていた。AR、VR、テクノロジーはどんどん発展していくけれど、またあなたと会えることを願って、わたしは現実の中で待っているよ。そんな意味をゆっくり込めて「おやすみなさい」と夜の中で微笑を浮かべた。