[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0123 memo.

 

 「物事を深く考えることは好きだけど、考えを深めたまま日常を送ろうとすると、意味もなく心を消費してしまうよ。」

 

 いつかの私が、このような言葉をiPhoneのメモ機能に残していた。現在の自分自身にとても刺さる一言だ、と思ったけど、常にどこかしらに刺さっているのかもしれない。いつまでも変わらない自分に呆れてしまう。頭が堅い、もう少し柔軟に生きられれば楽なのに。どうしていつも苦しみを選択してしまうのだろう、なんて独り言つ。

 

 こんな感じで、あらゆる場所にメッセージを残すことが好きだ。iPhoneのメモ機能を筆頭に、日記ともいえないノート、廃棄される運命の資料の裏、そしてインターネットに。このブログもメッセージとしての大きな役割を果たしていて、「こんな人間がいましたよ」という恥晒しでもある。色んな場所に散りばめた、過去から吐き出された言葉を時折目にすると、思わぬ気付きを得ることがある。何気なく書いた一言に、未来の自分が救われる。自分のことを良く知る人物から的確なアドバイスを享受する感覚があって、「そりゃあそうだ、自分が書いたんだから」と虚空に突っ込みを入れている。

 

 頭の中にあるモヤモヤを言葉にすると、その靄が現実世界へと表出する。紙に書けば紙の上にインクとして、スマホやPCに打ち込めばスクリーン上にドットの集合体として、人に話せば空を駆け抜け宇宙まで。よく、鬱憤を吐き出すと言うけれど、この表現こそが全てを物語っている。あまりにも溜め込みすぎると、精神が耐えきれなくなって爆発してしまう。だからこそ、わたし達は考えていることを適宜吐き出す必要があって、当人が繊細であればあるほどに、吐き出す作業も、書き殴る質量も、大きくなってくる。

 

 だからこそ、私は日々たくさんの言葉を嘔吐しているのだろうか。ブログでは心の中で暴れ回る情動を、SNSでは直感的な心の内を、ノートには文章とはいえない言葉の乱反射を。

 いかなる時も言葉に触れている気がする。一人なのに、ずっと誰かの存在を感じている。それは紛れもない自分自身。関西弁の自分、すぐ死にたがる自分、それでも懸命に生きている自分であって、それぞれの"自分"が私の中で呼吸をしている。その息遣いが上手く重なった時に、一つの音楽が奏でられる。空間に響く音を一音ずつ言葉に落とし込むことで、内なる存在をより深く認識する。

 

 そうしなければ、到底生きてなどいられなかった。私たちには言葉があって本当に良かった。ナポレオン・ヒルの著作に「思考は現実化する」という超ベストセラー本がある。現代を生きる人間が本当に必要とするのは「思考を現実化"させる"」能力だろう。守りではなく、攻めの姿勢で思考を吐き出す。その過程で必要不可欠になるのが言葉であって、言葉があるからこそ行動に落とし込むことができる。

 

 とりあえず、頭の中でプカプカと浮遊している思考を紙に書き出してみる。不器用でもいい、どれだけ時間がかかってもいい、とにかく自分の気持ちを全部紙面に吐き出してみる。恐らく、眼前に羅列する幾多の言葉は、吐瀉物の如く見るに堪えないだろうと思う。それでいい、幸いどれだけ醜い容姿をしていても、言葉は腐臭を撒き散らすことがない。そして、その言葉を独り占めするもよし、インターネットで世界に飛ばすもよし、友人と共有するもよし。自分に合った方法で、思考と肩を組み歩いていけばいい。その中で「結構いい感じ」と少しでも思えたのなら、それこそが"生きてる"ってことになるんじゃないかな。

 

 

 どれだけ不恰好でもいいから、

 安心して吐き出しちゃって

 

 何もかも上手くいかない時には

 その嘆きを音に乗せ、空に響かせて

 

 ある程度出し切ってスッキリしたら、

 泣きながらでもいいから、今日を生きて

 

 

 背中をさすってあげるから、

 私の胸に、思う存分吐き出して。