[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0118 無能人

 

 周囲を見渡せば、皆一様にすごいなと思える一面をお持ちの方ばかりで、圧倒的に自分の力が不足しているような気がする。SNSをちょろっと覗いただけで煌びやかな虚像が我先にと眼球に飛び込んでくるし、現実世界で出会う人間からはその煌めきをより強く感じる。耳に入るのは相手が経験したごく一部分を切り抜いた話しに過ぎないのに、それでも意味もなく落ち込んでしまう自分がいて。

 

 だからといって、自分には魅力が無いとか駄目だとか、そういう類の自己否定に陥る訳ではなくて。

 

 決して交わることのない異なる道路の上に、自分と相手を配置する。そうすることで決して比較が起きないようにしている。それなのに、”他人は他人、自分は自分、みんな違ってみんな好い”だなんて馬鹿じゃねぇのかと暴徒は叫ぶ。気が付いた時には自分と相手は道路上で交わっていて、気が付いた時には暴徒は自分自身を殴りつけている。自分と相手を比べるから不幸になる、理解しているのに比べてしまう、私って本当は不幸になりたいのだろうか。早い、安い、美味い、そんなファストフードみたいな感覚でお手軽に不幸をテイクアウトしようとしているのだろうか。馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿者の不幸自慢か?。

 

 大丈夫、私には作品がある、私には世界がある。他人が繰り広げる幸福の切り抜き劇場なんかに、わたしが脅かされるはずがない。

 

 ”死ね”、とシャウトで叫びたい。それは誰でもない自分自身に対して、曇天を叫びで覆いつくしたい。そもそもシャウトで叫ぶって表現自体に違和感があるよな、なんてことを考えてしまって実行出来ずにいる。あゝ、私には文章があってよかった。言葉ってなんて素晴らしいんだ。吐き出すことが出来るから、嘔吐する場所があるから、今日を何とか生きている。そうでなければ、もっと精神病が重症化しているだろうし、挙句の果てには自らの生命に終劇を告げていただろうと思う。吐いて、吐いて、吐き出し続けたから、”私”という形を保つことが出来ている。人間はすぐに自分を見失ってしまうから、己を感じる為に吐き続けろ。吐き出したものは吐瀉物同様、見るに堪えない物体かもしれない、それでも構わずに吐き出し続けろ。胃の中が空っぽになってもう何も吐き出せなくなった時には、少しは気持ちが楽になっているはずだから。二日酔いと人生は、とてもよく似ている。

 

 比較対象が生まれた時点でそこに優劣が形成される、後に自分の心が腐食する。

 

 必ずしも、その事象が実際に起きた出来事とは限らない。これは文章であってもSNSであっても会話であっても、すべてに適応されるフィクション的可能性。内容全てではなくても、部分的にフィクションを取り入れていることもある。バズる為にフィクションを呟く馬鹿、インスタ映えに囚われて虚構を投稿する愚か者、すべてがフィクションであるにも関わらずそれを明記しない詐欺師。会話だってそうだ、体験したことを話す上で、一度自分軸という主観的フィルターを通す必要がある。その時点で多少なりとも歪みが発生してしまう。寸分の狂いもなく、正確に事象を伝えることなどわたし達には到底不可能なのかもしれない。多少の歪みが発生した相手の体験談を耳から取り入れて、自分なりに解釈する。この時に自身の解釈にも歪みが発生する、歪んだ事実を歪んだ解釈で内部に取り込む。そりゃあ心が不安定になる時だってある。もうやめてくれと耳を塞ぎたくなる時もある。いっそのこと鼓膜を銃弾で貫いてやろうか、そんな自傷的な気分に陥るのは仕方がないことなんだ。

 

 一方、自分の中で湧き起こるあらゆる感情は現実そのものである。嬉しいも楽しいも悲しいも苦しいも辛いも、全て現実の中で自分として存在している。わたし達が着目すべきは、フィクション的可能性などではなく、自身の中にある現実性なのではないか?。何かを体験したことそのものではなく、体験したことによって発生した”感情”にフォーカスを当てる。相手の話しを聴く時は、体験そのものではなく、それによってどう感情が動いたのかということに耳を傾ける。自分のことを話す時も、感情の動きを言葉に乗せる。そうすることによって、体験や環境を羨むことは無くなるし、現在の自分を卑下する必要も無くなる。感情の動き方は人それぞれ異なる、これこそが”みんな違って、みんな好い”であって、比較からの脱却なのではないかと思っている。

 

 仮に他者と比較して落胆したとしても、そこで発生した感情はあなたの中にある”現実”なことに違いないから。その感情をじっくりと味わって、世の中を呪いながら生きていければ、それでいいよな。

 

 

 他人が羨ましいのか、

 現状に満足していないのか、

 

 結局自分がどう思っているのか

 よくわからないけど、

 

 心の中にある自罰的な現実性に、

 もう少しだけ、寄り添ってみたいと思います。