[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.085 人は人の中で人として生きていたいと願う

 

 「相手が抱く自分の印象について。」

 

 人間誰しも、他人から良く思われたいだとか、一体自分はどんな風に映っているのだろうとか、そういう感情が湧き起こることがある。相手が魅力的であればあるほどにそう思ってしまうし、進化生物学から考えてもその反応は当たり前のことだ。

 

 ”他人から良く思われたい”と願うことは基本的に良いことだと思う。だからこそ人は外見を小綺麗にしたり、教養を身につけたりという努力をする。結果的にそれは自分の為にもなるし、努力が実を結べば相手へ好意の芽を植え付けることが出来るかもしれない。

 

 しかし、相手からの評価を過度に気にするのは精神衛生上よろしくない。それはあまり現実的ではない。”良く思われたい”という感情が膨れ上がると、次第に"相手の顔色を伺い続ける状態"となってしまう。”自分が〇〇したいから行動する”のではなく、”相手に〇〇と思われたいから行動する”となってしまう。前提としての行動原則が変わってしまう。

 

 いくら相手の顔色を伺い行動に落とし込んだところで、その一挙手一投足が全て自分の評価に繋がるわけではない。基本的に、世間からの評価の方が自己評価よりも幾分低いものだ。そうやって望み通りの評価を与えてもらえなかった時に、人間は落胆する、心に傷を産出する。もう駄目だ、何をやっても上手くいかない、認めてもらえないと嘆く。

 

 本当にそうなのだろうか?そこに大きな歪みが発生していないだろうか?。落胆する原因は、評価されない=相手から目に見える形での報酬が無かったから。相手に対して身勝手な期待を抱き、勝手に裏切られた気持ちになっている。そうやって絶望している様子は、まるで一人おままごとを眺めているかのようだ。自分の心に、自己流で研磨したバターナイフで、見せかけの傷を刻みつけている。もちろん、バターナイフなので深い部分までは到達しないのだけれど。

 

 相手からすればたまったもんじゃない。勝手に期待されて、勝手に裏切られたと言われ、挙句の果てに憎まれる。そもそも最初は”良く思われたい”という純粋な気持ちでは無かったのか。自分も相手も、何一つ得をすることがない。互いに悲しい、互いに心苦しい。ある意味では両想いなので、好意の一方通行を脱出できたのかもしれないけれど、誰一人として幸せにならない。バッドエンディングな人間関係、そこにエンドロールすら流れることはないだろう。

 

 

 かく言う私も、過去に似たような経験があります。「裏切られた!」とまではいかないけれど、相手によく思われたいから行動していた時期がありました。「あれだけやったのに、どうして...」みたいなことがたくさんあったような気がする。今となってはとても馬鹿だなぁと思うけど、それでも一度ドップリと経験しておいてよかったと思える。

 

 結局のところ、相手からの好意だったり評価を得たいが為にとる行動っていうのは、とても不自然なんです。受けて側もその不自然さに気が付いているし、見え透いた欲望に対しては反発したくなる、何も与えたくなくなる。与える側も受け取る側も一通り経験して、「他人からの評価って全く意味がないし、つまらない」と思うようになりました。

 

 そこからの私は考えが百八十度変わって、自分がやりたいように振る舞うことにした。「全員から嫌われても構わない」というよりは「誰からも好かれなくて構わない」といったスタンスが妥当かと思う。「別にわたしのことを嫌う人間はそれでいいし、そういう人間はまるでセンスが無い」のように暴君的な思想を脳内に蔓延らせていった。

 

 例えば、花を贈るにしても、「この花束をあげれば好いてくれるかも」ではなくて「この花をあげれば喜んでくれるかな」と考える。もし喜んでもらえなかったとしても、それはそれで構わない。自分が勝手に贈っただけだし、必要が無いなら捨ててもらえばいい。喜んでもらえた時には、こちらとしても嬉しいし有り難い。その喜びがきっかけとなり、好意が発生した時には、思わぬ副産物があったものだなと感じる程度。

 

 もう現在となっては他人から何を思われようが言われようがどうでもいいと感じます。他人が何を想い考えているかなんて当人にしかわからないのだから、そんなことを一々気にしても仕方がない。何よりも時間の無駄です。自分が好きなように行動するのが一番心に優しいのではないか、そのように思っている今日この頃です。

 

 

 ここまで散々書いてきましたが、一方で”他人に良く思われたい”という考えは人間らしくて素敵だと思っています。何だかちょっぴり可愛いらしいですよね。自身の首を絞めない程度に、その可愛いらしさを満喫することも有りなのかもしれない。