[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.078 依存症の心配り

 

本を読まないということは、

その人が孤独でないという証拠である

 

太宰治

 

 わたしは本が好きです。活字が大好きです。文字を目で追っている時、ページを捲る指の感触や紙の擦れる音、美しい装丁、書物の厚み、その何もかもを愛しています。本があるから生きていける、本に生かされている。それは良い意味でも、悪い意味でも。

 

 現在進行形で本を読めることはもちろん、まだ読んでいない本、次読みたいと思える本がある状態をとても好ましいと感じる。ひとつ作品を読み終えても、またすぐに新たな作品に入り込むことが出来る。ずっと途切れない、脳を埋め尽くすほどの活字達が私を救ってくれる。救われ続ける為に、足繁く書店に通っている。インターネットでも本に関するアンテナを張り巡らせている。読みたい本のストックがたくさんあればあるほど、心に優しく作用する。活字に触れている時間は、生きることに対する罪悪感みたいなものから逃れることが出来るから。

 

 それでも、時折読みたい本が見つからない時がある。書店に行っても図書館に行ってもインターネットを見ても、何も心が動かない。そういう時は物凄く不安になる。どのように時間を使えばいいのかわからなくなるし、活字に触れ続けていないと自分が自分で無くなってしまうような、そんな恐怖感がこみ上げてくる。やがて恐怖は焦りに変わり、その感情から逃れたくてそこまで読みたいと思わない本を購入して読んでみたりもするけれど、やっぱり頭の中に入ってこないし、何より楽しくない。

 

 きっと私は、本に、活字に、依存している。生活の中から消えてしまった時には、生きていくことなど到底出来ないだろうと思う。何も依存しているのは本だけではなく、アルコールだったり、音楽だったり、大なり小なり様々な物を心の拠り所にしている。そして、自分自身それでいいと思っている。時に周囲が見えなくなる時もあるかもしれない、しかし裏を返せばそれだけ熱を注げる物があるということだから。わたし達は何かに寄りかからないと立っていられないような、繊細且つ絶妙なバランスで構築されている。だからわたし達は依存する。依存が依存を呼び、更なる依存へと昇華する。気が付いた時には後戻りが出来なくなっている程に。

 

 そんな自分でも唯一気を付けていることが、”人間に依存しないこと”です。特定の誰かに依存してしまうと、自分はもちろんのこと、時には相手さえも壊れてしまう。いつだって未来は不確定なのにも関わらず、依存した時点で関係性の破綻だけが確定してしまう。依存するのも、依存されるのも、共依存的関係性も、そのどれもが緩やかな破滅へと繋がっている。上述したすべてのことを過去に経験しているので、気持ちは痛いほど理解できます。寧ろ、当時は痛みしかなかったのではないか、そのように思います。

 

 ”物への依存は心を豊かに、者への依存は心の欠落”という持論を持っています。

 

 人間に依存しない為の心得として、第一に「相手から好かれていると思わない」、第二に「相手に期待しない」、そして最後に「去る者を追わない」。先ず、大前提として相手から好かれているなんて寸分も思わない事が大切で、反対に嫌われているとも思わなくていい。自分に対する好き嫌いなんて相手の中での問題なんだから、そういった点は全くもって反応しない方がいい。相手からの好意をそのまま「好かれている」と解釈してしまうと、嬉しさと同時に自分の中で小さな”驕り”みたいなものが発生する。そして、その驕りが”相手への期待”に繋がってしまう。期待が思い通りに満たされればいいけれど、大体は満たされない場合が多い。そうすると、声には出さずとも自分の中では”裏切られた”ということになり、その時点で二人の関係性はニュートラルではなくなる。そうやって歪な関係性をしばらく続けた後、耐えきれなくなって相手は目の前から去ろうとする。ここで”引き留めたい”という気持ちが浮かんできた時には、立派な対人依存が完成されている。

 

 好かれていると思わなければ、寸分も驕ることなく相手と接することが出来る。相手に期待しなければ、自己中心的な裏切られたと思う気持ちが無くなる。去る者を追わなければ、関係性に終止符を打つことが出来る。こうすることで、人間に対して依存することを未然に防ぐことが出来る。「好きだよ」と言われた時には、素直にその気持ちだけを受け取ればよい。決して、相手からの気持ちを好意に変換してはいけない。そこから生まれるのは、自分への驕りと相手への期待、そして関係性の破綻だけだから。

 

 只の持論なので、異論は認めます。

 それでももう、あんな苦しい思いはしたくないな。

 

 だから私は、物に依存をしていくのです。