[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.079 溝

 

 今回は”家族”について考えていこうと思う。

 

 

 家族って一体何だろうか。血縁者や夫婦関係の総称、中にはペットのことを家族だと仰る方もいる。血の繋がりも婚姻関係もない赤の他人を家族だと仰る方もいる。”家族”という概念、その解釈は人それぞれ違うと思うのだけれど、わたしの中で根付いている”家族”とは「冷たく、脆く、そして儚い」ということです。

 

 例えるなら、それは冷奴みたいなもので、触れると冷たい。しかし触れようとすると、いとも簡単に崩れてしまう。皿の上でぐちゃぐちゃになった冷奴は何処か儚さを帯びている。「崩れると面倒くさいから触れないでいる」という訳ではなくて、寧ろ触れようとした自分の手が瞬く間に腐り落ちていくような、そんな感じがします。そういう意味では、”家族”という概念ではなく、わたし自身が冷奴なのかもしれませんね。"家族"に触れると自分自身が崩れてしまう、崩れることを畏怖しているからこそ、境界線に深い溝を作ってしまうのかもしれない。

 

 他所の家族を眺めていると、温かそうだなと感じることがある。そこにはちゃんと体温が存在していて、その温もりに誤りの要素など一切含まれていないように思ってしまう。あくまで私は傍観者であって、ただの身勝手な妄想に過ぎないのだけれど。羨ましい、時には羨望する。疎ましい、時にはその温度に嫉妬する。隣の芝は青いかもしれないが、その青さを生み出しているのは自分の心のフィルターだ。本当はドス黒いかもしれないし、見えない根本付近には無数の害虫が張り付いているかもしれない。結局のところ、人には人の地獄があって、わたし達は死ぬまで炙り続けられるしかない。

 

 所謂、家族みたいな関係性や人間を信用していない。だからこそ、家族になり得る可能性を持つ恋人や異性を深い部分まで信用することが出来ない。もしくは過剰に信頼を置いてしまうかの両極端である。適切な信頼関係というのは、とても難しいものだなと思う。これまで触れたことがある”家族”という存在は、自分にとって必要不可欠では無かった。あなた達がいなくても、何の問題も生じないということ。その事実が何よりも悲しくて、泣き喚いていた時期もあったけど、現在となっては何も感じなくなったということ。わたしにとって”家族”とは、所詮その程度の存在です。

 

 世間一般でいう”家族”とは、「互いに助け合い、皆で支え合う」みたいな大義名分を掲げて構築されている印象がある。そんなありもしない幻想が美徳として語られてしまうから、”そうでない人たち”が息苦しさを感じることになってしまう。群れを成したければ、勝手にそうすればよい。いつまでも救済ごっこを続けていればよい。それでいい。だからといって、美徳に該当しない人間を哀れになんて思わないで。四肢欠損のように取り扱わないで。確かに羨ましいと思う時もある、妬ましく思う時もある、けれど、あらゆる類の感情を募らせたとしても、手に入らないものは仕方がないんだ。ある時分から、わたし達は手にすることを諦めてしまった。其れ等は全てまやかしだということを知ってしまったから。指と指の間隙を縫って、手にしていたはずの体温が地面に零れ落ちていく。そうしてやっと、”手にしていた”それさえも錯覚だということを思い知る。

 

 家族って、一種の自己表現なのかもしれない

 家族って、一種の自己満足なのかもしれない

 

 笑っちゃうな。