[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.091 生きるにしても死ぬにしても

 

 少し話を聞いて下さい。ウダウダと話し始めます。

 

 

 こんなこと言うのはダサいことを承知の上で言います、最近本当に時間が足りていない。

 

 人間に唯一平等に与えられた時間、その不足を嘆くなんて馬鹿のすることだ。そういう人間はきっと仕事が出来ない。

 

 なんて偏った考えを日頃から抱いているのだけど、少し前に生活サイクルを一新してからは、そんな自分自身が嘆く側の馬鹿になってしまった。もしかすると現在の自分は仕事が出来ない人間なのかもしれない。

 

 朝起きてから夜眠るまで、常に行動を続けている。書く、食べる、移動する、働く、食べる、働く、移動する、運動する、食べる、書く、読む、眠る。何もせずにボーっと出来るのは入浴の時間ぐらいだろうか。それでも、最近シャワーで済ませてしまうことが多い。

 

 ここで勘違いしないでいただきたいのは、決して忙しい自慢をしたい訳ではないということ。もうちょっと時間的余裕が欲しいという話しなんです。

 

 ちょっといきなり詰め込み過ぎたのかしら。比べてみれば、以前は暇さえあればお酒を飲み、コンテンツをただ貪るだけの受動的人間だったように思う。気分が向けば、ブログを書く。「書く事で何かが変わればいいなぁ~」みたいな緩い思考で生きていた。そういう生活を約二年程続けてきたけれど、振り返ってみれば全くもって自分に対して魅力を感じない。

 

 だからといって、過去の自分を否定する訳ではない。そんな緩い思考で生きていたからこそ、現在の自分がいる。当時をゴリゴリのハードワークで生きていたとしたら、いまこうやって文章を書いていないだろうと思う。そう思うと、無駄なものなど何一つなかった。ふと思い立ち、気分転換でブログを始めた自分も、酒に溺れていた自分も、愛を渇望していた自分も、たくさん惨めな思いをした情けない自分も、何もかも全てが無駄ではなかった。

 

 死にたいという思いは消えることなく、いつ人生が終わってしまっても構わないと思っている。ただ、自殺とかそういうことを考える暇がないぐらいに、現在の自分にはやりたいことが溢れている。やらなければならないこともそこそこある。

 

 問題は”やりたいこと”に使用できる時間を”やらなければならないこと”が圧迫していることにある。”やらなければならないこと”の大部分を占めているのが”仕事”。通勤時間を含め、一日の内約10時間程度を奪われる。その対価として充分に生活していけるだけのお金をいただいている。特段仕事が嫌いな訳ではないので、以前までは現状に満足していた。

 

 けれども、現在は違う。私が大きく変わってしまった。

 

[時間が惜しい、拘束時間が長すぎた、もっと効率化して凝縮すれば6時間で終了する、仕事自体は片付いているのにも関わらず、時間内はその場に居続けなければならない。]

 

 時間的余裕の無さから、様々な時間的不満や鬱憤が産出されていった。

 

 こんなこと空に投げかけても何も変わらないから、「ならどうすればいいのか?」ということを現在考えている。即座に会社を辞めるのは現実的ではないし、転職したとしても時間的拘束は基本的に同じ、総合的に考るとデメリットしかない。

 

 そうなると、自分でビジネスを作り上げるしかないのでは?と思った。

 

 自分の文章は金にならぬものかと思った。

 

 例えば、ブログで収益を上げる場合は、アフィリエイトだったりGoogle AdSenseを活用することになるのだけど、そうすると不要な広告が表示されたり、自分が思い描いているような文章が書けなくなってしまう。逆に、ブログをより簡潔化する為に広告を消すことを目論んでいる自分にとっては、有り得ないことだ。

 

 収益を意識すると、自分が理想とする世界を其処に落とし込むことが難しくなってしまう。それは自分の中で”表現”ではなく”ビジネス”になってしまう。

 

 例えば、執筆した文章が書籍として出版された場合に入ってくる印税だったり、企業もしくは個人から依頼された上での原稿料だったり、そういった類で発生する金銭は自己表現を邪魔しない感覚がある。

(実際にそういった形で依頼もお金もいただいたことがないから、勝手な思い込み、凝り固まった解釈ではあるのだけれど)

 

 そうではなく、「副収入を得る為にブログ媒体を利用する」といったやり方が、自分の表現したいことや美学に反している。もちろん、そういう志を持ってブログ運営に取り組んでいる方を批判する訳ではなくて、寧ろそうやって行動に移せている方は素敵だと思う。

 

 あくまで自分の場合の話しであって、自分自身の内にある心の声が「違うよ」と言っている。違うなら一体どうすればいいのか、そんな肝心な部分を心は教えてくれない。けれども、”自分はどうしたいのか”ということは教えてくれる。

 

「僕は文章が書きたい。そうやって自分の世界を表現したい。」

 

 どういう文章が書きたいのか、どのように表現するのか、表現した上でその先はどうするのか、こちらに対しても具体的なことは何も教えてくれない。

 

 つまり、自分で考えろということ。基盤となる重要な部分は直感に任せて、その他の部分は自分自身で行動に落とし込み試行錯誤していくしかない。自分の地図を描くのは自分自身、加筆修正するのもこれまた自分だ。

 

 どうすれば必要なものを生み出せるのか方法を考える、そして動いてみる。失敗すれば、方向を変えて違う道へ進めばいい。そうやって自分自身を再構築していく。

 

 

 しばらくの間、自分と向き合う日々が続きそうです。それはとても苦しい作業で、自分の駄目な一面、苦手な一面、醜い一面、それら全てを正面から抱きしめて把握しなければならない。この先も同じように現在を続けてもいいけれど、変わりたいと願うからこそ向き合う。そうやって一度自分自身を破壊する。そして少しずつ”私”を再形成していく。

 

 

 不思議なことに、わたしは、

 現在のそういう自分が嫌いではないのです。