[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0266 考える肉塊

 

 少し進んでは「うーん」と考え立ち止まる。歩いている時間よりも、考えている時間の方が長いのでは? と思うほどなのです。これは困ったものだ、とまた少しだけ考える時間が増える。

 

 正確に表すと多くの人間が『考えているフリ』をしている。何時いかなる場合でも”フリ”を続けている。これにはどんな意味があるんだろう、もしや何かメッセージが隠されているんじゃないか、この先には一体なにがあるんだろうか。蓋を開けてみれば思考の中身は空っぽなことが多い。考えている自分が好きなのか、思考の姿勢を示していれば何となくそれっぽく(理想としての自分)なるからそうしているのか、考えることそのものに捉われているのか。理由なんてものはどうだっていいいのだけれど、考えることについて考えてしまっている時点で、きっとわたしは考えることに縛られている。

 

 肉が一匹歩いている。周囲を見渡せば、何匹もの肉が歩いている。贅肉をたっぷり蓄えた個体から最低限の質量しか持ち合わせない個体まで、色んなお肉が各方面に散らばっている。皮膚を纏い毛を生やし布で身体を覆ったところで、わたし達がただの肉であることには変わりがない。食用の家畜(肉)と人間としてのわたし達(肉)の違いは一体どこにあるのだろう? それは脳が発達したことによって思考を手にしたこと。ただそれだけのことで、人間は自分たちのことを高等な生物だと思い込んでいる。

 

 肉であることには変わりないのにね。所詮、わたし達は肉だ。社会は肉の寄せ集めオンパレードだ。その中には上質な肉もあれば、腐敗寸前の肉もあるだろう。そんなことは少し考えればすぐにわかること。それなのに平均的に優れた肉として機能しなさい、だなんて世界は言いやがる。肉が肉に命令をする、肉が肉からの命令を受ける。怒声を発している人間だったり、とても横柄な人間や理不尽な人間を目の当たりにすると、わたしは頭の中がグチャグチャになります。とにかくうるさい肉、めっちゃ偉そうな肉、意味不明な肉肉肉。人間としてではなく、目の前にいるのは完全なる肉の塊なのであって、生憎わたしには肉が発する言語を理解することが出来ないのです。

 

 考えている間だけは、肉を脱することが出来る。なんとなくそんな気がするからこそ、何も無いことに意味を見出そうとしたり、生きている理由みたいなものを必死に探そうとするのだろうか。何かしても何もしなくても、考えても考えなくても、どうしようもなくわたし達は肉だ、肉の塊だ。放っておけば腐敗する、火の中では燃える。肉の中で生きて、肉として死ぬ。そして最後には骨に成る。そんなわかりきった事実や出来事に抗う為に、本能が私たちに思考を与えたのかもしれないね。いつまでもいつまでも、そんなことばかりを考えてしまう私もまた、肉の塊の一部分なのでした。