[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0193 賛歌

 

 他人の功績を賞賛できることは素晴らしいかもしれないけれど、「すごいね」「すごい」って無意味に言いながら終わっていく人生は嫌だなと思った。

 

 「いやいや大したことないよ」という謙遜は胸糞が湧き上がるし、「あの時はね…」みたいに当時の状況を説明されるともっとイライラする。いくら美辞麗句を並べ立てたところで、ダウナーな私には何一つ響く事は無い。「あぁ、この人”すごい”って言って欲しいんだろうな」と感じる瞬間が多々あって、そういった場合には絶対に相手のことを賞賛しないようにする。欲望が明け透けな人間の希望には沿いたくないから。そんな私は、良心の一部が欠損しているのかもしれない。

 

 誰よりも優先的に、先ずは自分のことを褒め称えてあげたい。他人への賞賛は二の次でよくて、少しばかりの余力がある時に言葉を注いであげればいい。時には内側に焦点を当てることも大切だと思う。鏡を見ながら自分と会話する時間があってもいいんじゃないか。

 

 大前提として、わたし達人間は生きているだけで偉い、素晴らしい存在なんだ。産まれたことにも、生きることにも、死ぬことにも、何の意味も無い。大義名分を掲げながら立派に生きているように見える人間も、所詮その意味合いは後付けに過ぎない。だから、別に立派に生きれなくてもいい。ただ、自分なりに今日を生きる、それだけで素晴らしい。その上で面倒な仕事をこなしたり、美味しい物を食べたり、好きな人と楽しい時間を過ごしたり、鬱になって動けなくなったりしているのだから、それ等は賞賛に値することだと思うの。

 

 美味しい物を食べることが偉い訳でも、鬱になることが素晴らしい訳でもない。美味しい物を食べたいと思える自分、苦しくなって動けなくなるほどに深い部分まで思考できる自分、様々な感情が内側で渦巻いていることが唯一無二であり、素晴らしいのだと私は考えている。本当の意味での優れた部分というのは、他人からはとても見えづらい。その一部分が見えたとしても、形を歪めて捉えられることもある。だからこそ、自分の為に言葉を紡ぐ必要があって、そこに並んだ言葉達を素直に受け取ることが大事になる。自分から自分に向けられた言葉に対しては一切の謙遜を必要としない。心の内で完結するからこそ、存分に高揚感を味わえばいい。そうして自分の存在を少しずつ理解していく、定められた枠組みを少しずつ分解していく。わたしが自由に動けるようになって初めて、他人に素晴らしさを伝えられるようになる。その時は「すごいね」なんて一言で終わらせるだけじゃなくて、持ち合わせているありったけの言葉を尽くしたい。

 

 

 こんな綺麗ごとを書き連ねるわたしは、

 少しばかり心が疲れているのかもしれないな。