[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0267 繋がりの静けさ

 

 約10年以上前、スマートフォンが普及し始めたタイミングで日常的な連絡手段がメールからLINEへと移行した。一通毎の送受信からチャット形式にコミュニケーションが置き換わった。当時はその利便性に感動したものだけれど、いまとなってはどこかメールでのやり取りが恋しくてたまらない。もっと言えば、わたしは文通がしたい。手軽で便利なコミュニケーションよりも、手間をかけた言葉のやり取りがしたい。

 

 LINEのともだちリストを眺めていると、LINE上でしか連絡手段が無い人がポツポツといて、その人の電話番号もメールアドレスも知らなければ、どこに住んでいるのかも知らないままなのだった。いま、自分が指の腹を使ってこの人をリストから削除してしまえば、もう二度とこの人には会えないかもしれない。そんな細い糸で繋がっている脆い関係性に、時々嫌気が差すことがある。文明の利器を使わなければ繋がっていられないこと、いとも簡単に他人に戻れる可能性があること、そこにどうしても虚しさを感じること。いっそのこと自身のLINEアカウントを破壊したくなる。全て焼き切ってしまいたくなる。

 

 そのような衝動に駆られる時があるのだけれど、そういう時は大抵の場合、気分が沈んでいたり心がグチャグチャになっている時なので、その場では何もせずソッとアプリケーションを落とす。例えば、LINEを失ったとしてもアドレス帳には大切な人達の連絡先が残っていて、だからといってそこに記載が無い人たちが大切ではないということにはならなくて、結局のところ、わたしはかろうじて繋がったままの優しい糸を大切に見守ることしか出来ないのだろう。

 

 LINEはまだしも、SNS上でしか連絡手段が無い人もいるだろう。顔も名前も知らない人、けれどもとても大切な人。一つの形として全然有り、寧ろその関係性って素敵だと思う。そこから発展して実際に会うこともあるだろうし、ちょっと違うなと思えばいとも簡単にブロックされ無かったことにされたりもする。わたしが学生時代の頃、当時流行っていたブログ上で知り合った方とは今でも深い交流が続いている。数えられる程しか会ったことがないはずなのに、私はその人のことがめちゃくちゃに好きだ。

 でも、それ以外の人はみんな消えた。一瞬でも関わりを持てたのが奇跡みたいなことなのに、その上関係性を継続させるのは甚だ難しい。現実世界でも電脳世界でも、この奇跡や難しさに違いは無い。連絡手段がLINEしかない、SNSしかない人には、継続の最中にあって、それでいてその先が存在しないような、無力な不安感がどうしても拭えないままでいる。アプリケーションを失った時のことを、考えてしまうのかもしれないね。

 

 

 それでもわたし達は繋がっていて、一本の糸は確実に存在している。いつか途切れてしまうかもしれないけれど、その瞬間が訪れるまでは、側にいることを錯覚しながら、静かに呼吸を続けていきたい。