[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0270 散花

 

 かつては花畑の中で皆仲良く咲いていたのに、今となっては綺麗に散ってしまった。それでも何とか根を張り生きようとしている寂れた花たちが、今日も養分を探しながら世を彷徨っている。

 

 埋まらない溝だとわかっていても、諦められなくて土をかけ続けていたり、いつか消えてしまうとわかっていても、明日を信じて光合成を繰り返す。その中でわたし達は、一体なにを愛すればいい? 一体なにを信頼すれば、少しは楽になれるのかな。

 

自分も大切にできない奴が、他人から大切にされるわけがない

 

 きっとそれは、自分自身なのだろう。友人からそれを示すLINEが届いていた。これを愛に置き換えたパターンを見聞きしたことがある。多分、みんな心ではわかっているのに、どうしても大切にしきれない部分があったり、時には自分を痛みつけてしまったりする。痛みを通して生を実感する人間もいれば、痛覚と快楽が紐づいている人間もいて、そういう人達が痛みを獲得する場合は自分を大切にしていることにはならないのだろうか。それでも痛みは絶対悪だと断定されて、自分を蔑ろにしていることになってしまうのか。

 

 まぁ、そんなことはどうだってよくて、結局のところは自己満足だと思うのです。自分を大切に出来ている”ような”実感が伴っていれば、それはその人にとって適切な自己愛が確立されている。そこにいくら他人が「いや、それは違う」とか「もうちょっと違うやり方がある」とか口出ししたところで、自己愛はこれっぽちも揺るがないだろうね。すべて自分軸で考えて、感じて、完結させちゃえばいい。そういう一本の太い軸が存在する人のことを、素敵だと思ってくれる他人がいる。そういう人が現れた時に、大切にされたいと受動的になるのではなく、先ずは自分からその人を大切にする。

 

「与えられたければ、自分から与えなさい」

「愛されたければ、自分から愛しなさい」

 

 世の中は返報性で回っている部分が多いにあるから、先ずは自分から与える、愛する、大切にする。それでいて尚、何も返ってこない時もある。そうなった時に、自分のやり方が悪かったと責め立てるのではなく、「そういうこともあるよな」と軽く割り切れる程度には自己愛を安定させていたい。自分のこと、責めれば責めるほど心が削がれていくし、それは間違いなく自分を大切にしていない。

 

 ここまで書いて気が付きましたが、自分を大切にするということは、これまでのあらゆる自分自身を赦すことなのだと思いました。良い自分も駄目な自分も、ミキサーに突っ込んでかき混ぜる。その上で出来上がった一つの液体が自分の”個”であり、その個性を飲み干して体の中で受け容れることで、初めて自己愛に養分が与えられる。そして、これからどうやって咲いていくのか、そして枯れていくのかを、ゆっくり考えられれば最高ですね。

 

 

 散ったあとはいつだって一人、

 枯れる時にも結局は一人きり、

 だからこそ、自分を大切に、あなた自身を大切に