[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0269 変われないまま、夏が消えた

 

N.0127 変わりゆく夏、終わる夏 - [No.000]

N.027 夏の沈む音が聞こえる - [No.000]

 

 今年も墓参りに行きました。姉の命日の翌日でした。去年の自分とは何も変わらないままで、こうやってずっと変わらないまま歳を重ねていくのかと思うと、どこか寂しくもあり希望とやらが恋しくもなります。日々を過ごすなかで少しずつ心が空っぽになっていく、孤食は人間の豊かさを破壊すると思う今日この頃です。

 

 滞在時間10分の墓参り、帰り道には近くにあるカフェでコーヒーを飲むことが恒例になっているのだけれど、今回はカフェインでは心の空っぽを埋められず、どうしたものかと悩まされた。墓参りをした後は人恋しくなることが多くて、友人に「今から会えない?」とか「今日飲みに行かん?」と連絡を飛ばすことが何度かあったけど、今回に限り人恋しさは全くあらず、誰かと会う気分ではないのだった。でも、まだ家には帰りたくなくて、何なら今日は他の場所で眠りたいぐらいで。思考を巡らせている内に孤独が難波駅に到着していた。

 

 最早、自分に残された選択はアルコールを流し込むだけだった。日が出ている内から飲めば、夜は余裕を持って眠れるはずだ。そんな安直な考えから、最近通っているBARの扉を叩く。オープン直後に行った為、客は自分以外に誰もいなかった。バーテンダーの独り占め、寸分たりとも嬉しくない。今日はあんまり喋りたくないんだけどな(自分勝手)。そして何よりも売り上げの為に”飲まなきゃ”みたいな謎の使命感が湧き出て、当初予定していた「3杯飲んだら帰ろう」という考えが暗い店内に吸い込まれてしまった。

 

 そうこうしている内にポツポツとお客が来店されて、わたしはバーテンダーからも使命感からも解放されたのだった。けれども、スコッチに侵された頭と心は止まることを知らず、その後もひたすらにオーダーを繰り返していた。結果、何杯飲んだのかもわからず、帰り道の記憶もなく、気が付けば自宅でシャワーを浴びていた。全身を覆う湯気が酔いに優しかったことだけは覚えている。

 

 アルコールで虚無は埋まらない、なんてこと全ての酒カスが理解している事実なのに、それでもどうして我々は再三同じ過ちを繰り返すのでしょうか。翌朝、「こんな姿姉ちゃんがみたら悲しむだろうなぁ」なんてことを思いながら、行道のコンビニでヘパリーゼとinゼリーを購入して、二日酔いの愚かさと共に出社した。

 

「そうやって潰れてる時って、大概一人で飲んでた時よね」

 

 何気なく言われた一言でハッとさせられた。確かに、自分は誰かと飲んでいる時はある程度制御しながら飲んでいて、潰れることはほとんどない。寧ろめっちゃ元気である(それでも時折ぐちゃぐちゃになる)。対して一人で飲む時にはぶっ壊れるくらい飲まなければ気が済まなくて、そもそも壊れる為に飲んでいる節もあって、多くの場合がグロッキーに幕を閉じる。”壊れる為に飲まなければならない”というのも一種の強迫観念なのかしら。どうしても自分を制御することが難しい。愚かだとわかっていても、その愚かさを通り越して更に愚かなことをするものだから、どこまでも落ちていくばかりで底をつくことを考えられない。

 

 だから私は、一人でいることが好きであると同時に、一人がどうしようもなく怖ろしいのです。ペルソナが剥がれた僕は、わたしは、自分自身に潰されてしまう。それやったら酒飲まんかったらええやんって話しなんだけど、情動とアルコールが結びついてしまっているから、突発的にどうしても避けられない時があって少しばかり難しい。あらま、これまたご立派な中毒。「こんな姿姉ちゃんがみたら悲しむだろうなぁ」と、同じ言葉がふわりと思い浮かぶのでした。

 

 

 

 わたしたち、会ったこともないのにね。