[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0236 児戯と大人と

 

 どうしてこんなことになっちまったんだろうな、って思う瞬間が度々あります。思い描いていた何もかもと違う形になっていて、さぞかしそれを望んでいたかのような顔をして歩いている。終わってしまうのはいつでも構わないと思っているにも関わらず、空は晴天を示していたりする。なんか、嫌になっちゃう瞬間が相変わらず生活の中に蔓延していて、そういう時に良い気分転換とかストレス解消法とかがあればいいんだけど、ちょっとやそっとのことじゃ目を逸らせなくて。向き合うことが怖くて、以前なら酒を飲んで誤魔化していたけど、そうすると心が死に歩み寄ることに気が付いた。だからやめた。そうすると今度は保たれた心に感情がついていけなくなって、気持ちが空っぽになっちゃった。

 

 皆を救うヒーローが苦しい時は一体誰が助けてあげるんだろう。聞き上手な人のお話しは一体誰が聴いてあげるんだろう。そういうことを考えているだけで日が暮れている休日。誰かを救うことが出来たとしても、自分が苦しい時に救われるとは限らないのが世の常で、それでも大切な人や知らない誰かを救うことに自己犠牲の精神は含まれていないのだろうか。傷だらけでカッコイイと思う、そういう人になりたいと私も憧れる。でも、自分が崩れてしまっては、差し伸べられたはずの手が無くなってしまう。だから、一番に『私』を大切にしてほしいけど、自分のことになると視野が狭くなりやすいから、どのようにして優しさを与えて、優しさを受け取ればいいのか、難しいところだよなと思う。

 

 自分への優しさが過剰になると、傷つくことが怖くなって周囲の人間に牙を剥く。傷つかないことそのものが新たな傷となり、そればかりに囚われていると他者の傷に対して鈍感になる。敏感過ぎても鈍感過ぎても、生きづらい。中間地点を目指すこと、加減が難しいなと思う。さっきから難しい難しいと言って、物事を難解に捉えているのは自分自身なのであって「どうすれば物事を簡単に考えられるのでしょう」と教えを乞うても誰の声も聞こえない。だからとりあえず笑って、何とかその繊細さを隠すことばかりに必死になって、最後には疲れて動けなくなって、何年もの時を重ねても、上手な生き方というのがわからないままでいます。

 

 現時点でただ一つわかっていることは、優しさには人を救う力があるということ。かつての少年が望んでいた大人にはなれなかったけど、不器用ながらも今日を生きています。これまで出会ってきた人たちに与えてもらった優しさを、次は他の誰かに繋いでいきたいと考えている。どれだけテクノロジーが発達しようとも、人間は一人では生きていけなくて、孤独に枯らされる生き物です。わたし自身が、そしてあなたの心が枯れてしまわないように、光の雨粒に温度を乗せながら、愛を配りたい所存です。