[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0265 不幸中の幸い

 

 ある事象が起きた時に、解釈次第で嬉しくなったり悲しくなったり、そうやって人間は喜怒哀楽を消費している。木から落ちたリンゴを見て万有引力の法則を発見するニュートンもいれば、そのリンゴを食べてただ空腹を満たす凡人もいる。会社をリストラされて絶望の淵に陥る人もいれば、次はなにをしようかとワクワクする人もいる。目の前で起きたことをどのように捉えるか、そしてどう考えるのか。それが全てといっても過言ではないほどに、解釈によって人生の質そのものが変わってくる。

 

 自分にとって良い方向に考えられればポジティブ、悪い方向に考えてしまえばネガティブ。そんな単純解釈もまた、少しだけ自分の心が削られる気がするのです。ポジティブ至上主義は結構なのだけれど、そもそもネガティブ反応というのは生物としての本能が自分自身を守る為に沸き起こる感情なのであって、決してそれらが悪ということにはならないよね。ポジティブもまた善ではなく、乱暴な楽観主義に苦しめられることだってある。あくまで、それぞれが一つのジャンルとしてネガポジネガポジ言われているだけなのだと、私自身は解釈しています。

 

 例えば、会社をリストラされた場合には、「うわぁ、最悪や。これからどうやって生きていこう。就職活動も面倒くさいし、やりたいこともないし、俺には学歴も資格もなにもない」と考える人。「うわぁ、最悪や。これからどうやって生きていこう。就職活動は面倒くさいからフリーランスになろうかな。何しよっかな。とりあえず、失業保険と貯金で半年ほどニートでもしようかな」と考える人。どちらもリストラされたことは同じなのに、何だか後者の方が生きやすそうだ。両者の違いは、頭の中にある選択肢の数なのです。選択肢が多ければ多いほど良いという訳ではないけれど、ある程度の数を有している方が、いざという時に思考する余裕が生まれます。そして、選択肢とは=知識であるということです。

 

 本を読めば、著者の人生そのものが描かれている。色んな人と話しをすれば、その人の体験談を吸収することが出来る。何なら困ったときに相談に乗ってもらえたりする。本や他人というのは、自分という枠組みを超えた先にある「生き方の師」であると感じています。対話することによって、一つの可能性を示してくれる。その場ではなにも変わらなかったとしても、わたし達の脳はその教訓を知識として蓄えます(記憶に残らないお話は自分にとって必要がなかったことなので、思う存分に素通りしましょう)。

 

 別に無理してポジティブに考えなくても、不幸中の幸いを一つだけ見つけられればいいんじゃないかと私は思う。二日酔いで起き上がれない死んでしまうという時でも「それでも昨日は楽しかったな」と思えれば満点。恋人に別れを切り出され悲しんでいる最中でも「こうなったらしばらくは一人で遊びまくる」と開き直ってしまえれば花丸が咲く。失ったものよりもその中で失われなかったもの、残ったものに気づいてあげる。失ったことによって生まれた空白に何を納めるか、考えてみる。その為には選択肢としての知識が必要で、それを得るには対話が何よりも大事になってくる。

 

 所詮、わたし達は一人では生きていけない。ネガティブもポジティブも、他人(もしくは自分自身)が勝手に解釈を極端視しているだけ。不幸はいつだって簡単に見つけられるから、その中で一つ咲く幸いに目を向けてみて。そうすることで、今よりもほんの少しだけ、息がしやすくなれば嬉しいね。