[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0295 比較対象としての世界

 

「最も手っ取り早く不幸になる方法は、自分と他人とを比べること」

 

 このブログでは何度か書いていることなんだけど、定期的に思い出して、書きたくなってしまう。

 

 精神が鬱々としてくると、世界がとても煌びやかに見えてくる(皮肉として)。そんな光たちと現在の自分を比べてしまえば、まるで消しゴムのカスのように心が削れ落ちて、ゴミが周囲に散乱してしまう。そう、いとも簡単に自分がゴミ同然の存在になってしまう。浮き彫りになった己の欠点に幾度となく殴打され、なんで生きてるんやろうなんで死ねないんやろうなんでご飯食べてるんやろうなんでみんな笑ってるんやろうなんでわたしは泣いているんだろうなんでなんでなんでなんで......etc といった具合に、これまたありがちな落下を達成する。

 

 思うに、人間というのは生きているだけでそれが正しく、それだけで人生というのは回り続ける。人は死に向かって日々奔走していて、その中で労働したり、恋愛したり、罪を犯したりしているわけで。同じ種族であっても、自分の瞳に映るすべての他人は圧倒的に別の生き物なのだ。そんな訳のわからない、すべてを把握することなど不可能なはずの他人と、すべてを理解しきっているように錯覚している自分自身とを比べたところで、一体そこになにが生まれるというのだろう? ある一定の価値基準に従って優劣を見極めたところで、なにがどのように変わるのだろう? 本当に、なに一つとして、自分の世界は動き出さない。

 

「比べるならば、過去の自分と。」

 なんてことがビジネス書などで鼻高々に書かれていたりする。うん、間違ってはいない。他人という別生物と比べるぐらいならば、過去の自分と現在の自分を比較する方が、幾らか建設的だと思う。それでもね、そもそもの話し、誰とも比べなくていいんだよ。世界に向けて言いたい、わたし達は、誰とも比べる必要などなかったんだ。

 長い目で見れば、人間は時間経過と共にできないことが増えていく。ご年配の方のお話しを聞いていると身に染みるように痛む。もしこのまま生きていれば、自分にもそういう時がやってくるのだろうな。なんてことを考えると、過去の自分と比較することも、なんの意味も成さないように気がしてきて、「昨日の自分より今日の自分!」みたいな思考を気が付いた時には完全に放棄していた。出来なかったことが出来るようになり、出来ていたことが出来なくなっていく。常に変化し続けるわたし達にとって、”過去”はそれほど重要ではないと、わたしは考えています。

 大切なのはいまこの瞬間であって、自分には一体なにが出来るのか、どの行動を選択するのか、ただそれだけに集中していれば良い。そこに他者はもちろん、過去の自分でさえも、その他すべての比較対象が不必要だった。

 

 わたしたちは意図的に不幸を選択してしまう。それが他人と比べることで、欠点を膨張させることで、現在を嘆くことで。そういう瞬間は誰にでもやってくるものだから、そんな時には、インターネットから脱出して、しばらく一人になってみて。現実のなかでただ粛々と、自分自身と向き合ってみて。そうして、すこし元気が出てきた時には、わたしに色んなお話を聞かせてほしい。