[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0294 弾丸と憂鬱

 

 日常の中で覚える違和感、そのままにして歩きたい。

 

 まるで蜘蛛の巣のように張り巡らされた敏感なセンサーに逐一なにかが引っかかる。違和感を解消するために多くの時間を費やしていたら、いつの間にか11月が終わりそうになっていた。こんなこと、こんなことを繰り返していたら、人生なんてあっという間に終わってしまうではないか......。まぁ、それはそれでいいのだけれど、どうせ生きていくのなら、時間とか心拍数とかは、もっと有意義なことに投資したい。

 

 ここで立ち止まって考えてみる。一人であること、孤独であること。それそのものには何の意味もなく、ただ少しだけ、死の香りが強まる程度なのだと思う。それに耐えられないなら誰かと一緒に生きればいいし、それが好きならずっとそのままでいればいい。問題なのは、一人でも、二人でも、冷たくても、温かくても、当人が現在に納得しているかということである。これを読んでいるあなたが、現在のあなた自身を受け入れることが出来ているのなら、それはもう素敵でしかない。「いや、さすがにそれは無理。自分を好きになれないわ」って人は、その分わたしがあなたを肯定するのでご心配なさらず。

 

 受け入れたり、納得したりするのって、とても難しいようで、恐ろしいほど簡単なことでもある気がする。つまるところ、「現在」をまる飲みしてしまえばいいのだ。なんとかそれらを飲み込んだものの、不快感から吐きそうになったり、体内の圧迫感から自分が爆発しそうになったりする。実際に吐いてしまうこと、心がが爆発してしまうことも、起こり得る。そういう時は、一気に取り入れようとしないで、細切れにして少しずつ取り込むとか、捉え方を変えてみて解釈の味変をしてみるとか、別のアプローチを試すことが出来る。そうやって、様々な工夫を凝らしながら、現在の自分自身を受け入れられている人、この日本にはどのくらいいるのだろうか?

 

 やっぱりどうしても飲み込めないもの、見ることすら恐ろしいものもあって、そういう存在はずっと見て見ぬふりを貫いている。それは自分を受け入れていないということになるのだろうか、不完全として世界に判断されてしまうのだろうか。それさえも自分自身が納得できていれば、もう自分以外の尺度はどうでもよくって、「見て見ぬふりを貫いている」そんな自分さえも、痛いながらも受け入れることが出来るのかもしれない。

 

 楽しいこと、嬉しいこと、温かいこと、愛情みたいなもの。そういった眩しい光はたまに降り注ぐからこそ、記憶に残りやすいのかもしれない。常日頃、ポジティブ側面ばかりに満たされていれば、一つ一つのかけがえのないものを見失ってしまう。世に散漫するあらゆる痛苦を身体に取り込みたい、そうすることによって、わたしは幸せを遠ざけている。それでよかった、世の中には”幸せでない”ことが”幸せである”人もいるのだ。もう少しだけ楽に生きたいとは思うのだけれど、これも自分が選び取っている出来事の一つで、その思いを受け入れられない間は、このままでいいのかもしれない。見て見ぬふりを続けていれば、それでよかったのかもしれない。