[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.015 盲人の備忘録

 

「すべては楽しい無意味」

東京喰種:Re 13巻 / 石田スイ

 『生きる意味とは?』みたいな考えに答えを見出す頃には、私たちの肉体は腐肉と化していることでしょう。生きることに意味なんてない、という結論付けが憎らしい。私たち人間は、何かにつけて意味付けをしたがる生き物なんだと思う。存在しない筈の”意味”だとしても、そのことを認められない、諦めきれない。これからもきっと、死に場所を求めて生を彷徨うことでしょう。

  

 


 

 今回はわたしの為に言葉を綴ります。心の整理。

 

 膨大な不安が押し寄せてきた時には、とにかく現在の感情を可視化することにしている。感情を言葉として紙に書き出す。臨床心理学では認知行動療法に含まれるらしい。とにかく書く、色んな視点から物事を俯瞰する、折衷案を取り入れる。しかし、いくら書き出しても不安量が、心の圧迫感が薄れない時があります。何もしなくても苦しい、抵抗すればもっと苦しい。そういった時には、一旦考えることを放棄する。不安との向き合いを一時保留にする。それが効果的だということに最近気がつきました(あくまでわたしの場合です)。しかし、家にいると様々な雑念が浮かび上がります。あらゆる情報を遮断する為には先ずインターネットが邪魔になる。スマホタブレット、パソコン、そこにデバイスが存在するだけで、思考放棄の妨げになります。他には本があり、紙とペンがあり、音楽もある。現代を生きる上で情報を遮断する(完璧に)ということの難しさを実感しますね。一人暮らしでない場合は、より難易度が上がるでしょう。

 

 一つのことを深く考えることよりも、何も考えないようにすることの方が難しいだなんて、とっても皮肉が効いていると思いませんか?。それでも私は一時的に思考放棄したい。投げ出してしまいたい。そういった時に、わたしは銭湯へと足を運びます。風呂が好きなので出来る限り自宅でも入浴をしていますが、やっぱり広い風呂というのは気持ちが晴々とする。鬱蒼とした心の中心部に陽光が差し込むような、そんな心地良さが銭湯にはあります。おまけに、浴場内にはスマホも本も紙もペンも持ち込むことが出来ない。強制的に手持ち無沙汰になることが出来ます。その状態で熱湯に浸かる、思わず息がこぼれてしまいます。お湯の温かみに身体中を包まれると、なんだか全てがどうでもよくなる。特にサウナがオススメです。サウナ室内では時間が経つにつれ、”熱い”以外の感情が無くなります。一定時間が経過すれば水風呂を経由し、外気を浴びながら少し休憩。外気浴では酩酊に似たような感覚が全身を包み込む。(世間ではこの感覚を「ととのう」と呼ぶらしい。)この特有の酩酊感をセックスよりも気持ちいいと表現する輩がいるそうですが、わたしはセックスの方が気持ちいいと思います。輩のレベルがその程度なのか、わたしに酩酊感が足りていないのか、まぁそんなことはどうだっていい。とにかく、銭湯に行けば良い意味で物事を考える余裕が無くなります。「どうでもいいや、なんとかなるか」といった心持ちを得て帰路につく。不思議と帰宅後もお酒をのみたいとは思いません。酩酊の余韻を、違う種類の酩酊で上書きしたくはないのです。

 

 

 心が無ければ、良い文章は書けない。自分自身のご機嫌をとる為に辛いことや苦しいことからは目を背けてしまえばいい。それでも視界に入ってくるものに対しては、目を瞑ってしまえばいい。そうすれば何も辛くないし苦しくもない、そうやって自分は機嫌よくスキップをしていれば良い。そう思っていた。それがあたかも絶対的正義かのように盲信していた。目を背ける回数が増えるに比例して、目を瞑る回数も増えていった。最終的にはずっと目を瞑った状態となった。何も見えなくなった。”見ない”と”見えない”では雲泥の差がある。もう見えなくなってしまった、なにもかも全てが。

 

 わたしを呼ぶ声が宙を飛び交う、微かに感じる自身の名を。消えかかった微音だけを頼りに、声の発生源へと歩みを進める。傍に寄るだけで暖かみを感じる体温が、癒着したわたしの瞼をゆっくりと切り裂いた。途端にあらゆる光が次々と眼を刺し、涙が止まらない。溢れる水滴が邪魔をして世界を直視することが出来ない。だとしても、その輪郭を捉えることなら出来ると思った。そのぐらいがちょうどよかった、そのことを私は思い出す。

 

 

「何よりも大切なことを わたしは時々忘れてしまう。」