[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0159 落花

 

 いつかは終わる、あなたもわたしも。

 

 いつまでもこの苦しみが続いているような気がして心臓が痛い。終わりが見えないから苦しい。最終地点にたどり着いた時、一体わたしは何を思うのだろう。

 

 「まだ終わりたくない」という未練、「やっと終わった」という安堵、「えっ、ここはどこ?」という困惑。正確に寿命を知れる装置があればいいのに。残された日数を把握していれば、もう少し他人にも自分にも優しくなれるのに。一生懸命に生きられるのに。そんな言い訳を世の中に吐き捨てながら、今日一日を無駄にしている。

 

 全ての生き物に死が訪れる。生命が尽きることで終わりが始まる。身体が抜け殻になれば、全ての苦痛から解放される?。何もかもが無に帰すならば、生きている間に形成される感情は全て娯楽ということになる。子孫を残すことを目的としないならば、わたしの人生は一体何を求めて嘆いているのか。今日もお腹が空いていて、出来ればずっと眠っていたいし、人肌の温もりを感じたいと願う。何故そう思うのか、その欲求を愚直に満たそうとしているのか、自分自身でも不思議に思う。

 

 ”それが本能だから”という安易な解釈は聞きたくない。本能さえも意思で抑え込むことが出来るのが人間だろう。生きることそのものを放棄するのなら、ほんの数日間飲み食いしないだけで絶命する。そんな単純なことなのに、今日もわたしは大量の食物を胃に流し込む。希死念慮だとかほざきながら、生命を未来に繋いでいる。「仕方ないよ本能だから」そんな自分に失望する。

 

 きっとそんな失望でさえも、娯楽の一種なのだろう。寝ても覚めても夢見心地で、生きている実感が極端に薄い。寧ろ夢の中の方が現実的であったりして、その非現実が私を苦しめる。

 

 出勤する度に、非常階段から飛び降りるイメージが頭に浮かび上がる。仕事が苦痛という訳ではないのだけれど、その非常階段だけが唯一わたしを理解してくれている気がして。雨風で老朽化していて、日常では誰からも必要とされていない存在。わたしにとっては、少しばかりの息抜きを与えてくれる静かな居場所。

 

 膝上程度の頼りない柵を乗り越えれば、わたしは終わってしまう。一歩踏み出すだけで終わってしまえる。そう考えると、どれだけ嫌なことがあってもどうでも良く思えてくる。いざとなれば全ての苦痛を無くすことが出来る。自分の意思で終わらすことが出来る。そんな心許ない自己効力感だけが、私の背中にそっと手を添えている。

 

 

 わたしには翼が無くてよかった

 飛ぶことが出来なくて本当によかった