頑張り過ぎる世の中へ
人生の中で頑張らないといけない瞬間が訪れる。それは受験勉強かもしれない、就職活動や転職活動かもしれないし、恋愛や子育てかもしれない。そもそも”頑張る”とは一体何だろう。Googleで”頑張る”と検索すると一番上に「1.忍耐して、努力しとおす。気張る。/2.ゆずらず強く主張し通す。」と表示される。今回考えたい内容としては[1.]が相応しい。忍耐や努力、そして気張る。これらを美徳とする思想は素晴らしいとは思うが、客観的に見ると明らかに精神的負担が多大に生じているように感じる。その頑張りが充分に成熟し功を奏することが出来ればいいけれど、少し方法を間違えばその実りは腐食し地面へと一直線に落ちてしまう。地面に落ちてからも根性で這いつくばり再び天を志す人もいるけれど、そういう人は少し離れたところから見るととても苦しそうだ。出来ることならば人生に苦しみは少ない方がいい。そう考える私は、ゆとり教育が生み出した楽観的怪物なのだろうか。
わたし自身も社会的成功を夢見て頑張ることを決心した時期があった。しかし、その頑張りは功を奏することはなく、どんどんと自分らしさが削がれていった。その時分は文章を書くこともやめていた、小説も読まなければ映画も観ることもしなかった。そんなものは自分自身の収入に繋がらないと思っていた、所謂金にならない娯楽扱いとして重い蓋をしていた。結果的に以前よりも仕事が出来るようになったり、収入が上がったりしたけれど、自分の心中は空っぽになっていた。合理的思考が精神の深くまで根付いていた。もう何もかもがどうでもよかった、辛くは無かったが、楽しくもなかった。
そんな時期を経て、ある時分から頑張ることをやめた。正確に言えば「唯一、頑張らないことだけを頑張る」ことにした。適度に働いて自分の好きなことをして生きていくことにした。嫌いなことはしない、苦手なことは他人に助けてもらう、お金で解決できることはお金で解決するなど、やらないことを明確にした。「行動しないという行動をする」といった考え方を愛している。意外とこれが難しく、自分もまだまだ遂行できていないことが多いから、これからもこの考え方を大事にして生きていきたい。そして、楽をして生きて、ヘラヘラ笑いながら死んでいくことが出来れば最高である。
気張っている時よりも肩の力を抜いている時の方が、得てして上手くいくことがある。これはどんなことにも言えることではないだろうか。自分の経験談ばかりで申し訳ないのだが、成功を志し仕事に打ち込んでいたときよりもヘラヘラしながらマイペースに仕事を進めている現在の方が、仕事全体が上手くいっている。成長の為に必死に勉強していた過去よりも、趣味的に読書をしている現在の方が吸収率も幸福度も高い。「必死にやってる人間は楽しんでやってる人間に勝つことが出来ない」これは以前ネット上で目にした言葉だが、正に言い得て妙だと思った。そもそも楽しんでいる人間には勝ち負けの概念すら無いんじゃないか。ただ自分が楽しいからやっている、そんなシンプルな動機がさらに楽しさを増幅する。そして何よりも心に優しい。
中学生の頃不登校だったわたしに向かって恩師が放った一言が、現在でも鮮明に記憶に残っている。「頑張らなくてもいい、その代わりに踏ん張れ」成人してやっと言葉の本質が理解できた気がする。気がするだけで未だ完璧に理解することは出来ていないのかもしれない。この言葉の理解度を深める頑張りだけは惜しみたくないものだ。
世の中は頑張りが過ぎると思うんです。
自分自身に厳し過ぎると思うんです。
もっと自分を褒めて、甘やかしてあげて下さい。
もっと肩の力を抜いて歩んでいきたいものです。
今日を生きたわたしは、自分へと称賛のストロングを与えます。
了