[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0262 諦観としての羨望

 

自分の為には生きれないし頑張れないけど、誰かのためになら頑張れるっていう人もきっといるだろうね

 

 前記事を読んだ友人が言葉をくれた。頑張れる人に、なりたいなぁ。その誰かが見つからないから、渋々自分の為ばかりに生きているのだけれど、そういう”誰か”はどうすれば見つかるんだろうか。もしかするとその人はとても近くにいる人なのかもしれなくて、その大切さに自分が気付けていないだけなのかもしれなくて、そういう感覚のすべてが飲み込めないままでいる。「まあ、どうせ裏切られるやろうな」という諦念はいつまで経っても心の奥底にこびりついていて、裏切られるということは自分が相手に何かを期待してしまっているということでもあって、予測の中でさえも自分の愚かさだけが如実に浮かび上がる。

 

 自分が裏切る側なのかもしれないのにね。知らない間にわたしは相手を裏切っていて、相手が傷ついたことに気づかないまま安っぽい笑顔を浮かべてる。その中で、本当にわたしは笑えていますか? 気づかないフリをしているだけではないのでしょうか? 事なきを得る為に、自分自身を責め立てる為に、その度に別れのカードを切り出している。そりゃあ、見つかるはずも理解できるはずもありゃしない。”誰か”の正体はずっとわからないままだし、それを言い訳に頑張らないことを正当化してる。そこはかとない虚しさだけが、ずっとずっと寄り添っている。

 

 大切な人に出会ったり、存在に気付く為には、先ずは自分自身を大切にしてあげないと。でも、どうしても抜けきらない自罰的な思考回路が、歪んだ心の癖が、いつまでも自分の邪魔をしている。そろそろ幸せになっていいんじゃないか? 問いかけながら眠りにつく日々、まるで家のなかが空っぽの洞窟みたいで、声だけが意味もなく響いている。頭のなかではこうだとわかっているのに、上手く動けないことってありますよね。どうして不幸になる道を自ら選択しているんだろう。苦しい道を突き進もうとするのだろう。どうしてお前は、その中で笑っているのだろうか。

 

 身近な人の幸せはいとも簡単に願えてしまえるのに、それが自分のことになると、どうしても否定的な感情が湧いてくる。ああ、そうなのだな、やっぱり私は自分の手で幸福を遠ざけているのだった。どうしようもなく苦しい時、「愛されたい」というそれは小さな声で絞り出された願望が、端から叶わないであろうと決めつけているのはいつだって自分自身だ。一人でも平気って顔をしているのが当たり前になって、寂しい時や愛されたい時にどんな顔をすればいいのか、いつからかわからなくなってた。人生なにが起きるかわからないし、明日には死んでるかもしれないからさ、そんな確率論の上で生きている間は、愛を求めてもいいし、幸せになってもいいと思いますよ、私。

 

 皆さんは誰かのために生きていますか?

 それとも自分のために生きているのでしょうか?

 

 いまのあなたは、幸せですか?