[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0181 きっと、あなたも異常者

 

 

 この生き辛さをあと何度味わえば人生が終わるのだろう。

 

 糸が切れたように終幕を告げるのか、もしくは告げられるのか。思考そのものが間違っていると否定されたり、生き方や精神性を否定されたり、もう少し認めてくれてもいいのにと思うよ、世界。

 

 観客が誰もいないのに歌う事を止めないシンガー、一円の価値も付かないのにひたすらに創作を続ける画家、読まれることのない詩歌を自分の為に書き綴る文筆家。本当にそれでよかったのだろうか。それでよかったと、彼彼女は笑えているだろうか。陰鬱な笑顔がとても眩しくて、私には直視することが難しい。

 

 変わっていると、頭がおかしいと他人は言う。普通ではないと人様は言う。どうして?と人はわたしに問いかける。普通に生きたいけれど、その普通が理解出来なくて、わたしは道を見失う。皆一様に普通ではない一面があるはずなのに、その一面が自分とは異なる場合には”異常"と見做し、言葉や態度で眼前の異常者を刺し殺す。

 

 別にわたしは異常者でも構わない。”異常”は”普通”なんかより何倍も輝いて見えるから。その輝きに比例して、自分自身を傷つけてしまうことも多いけれど、それさえも魅力として作用することを私は知っている。頭の中に深く根を張った精神病も、これは自分が生み出した一つの概念であって、そのいくつかの症状に対して名前がついただけ。だから、これは一種の個性でもあるし、使い方によっては力にもなる。

 

 そんなこんなで憎たらしい個性との共存を選択しながら、その特性に日々苦しめられている。最近思うのだけれど、わたしはこの病を必要としているんじゃないか。苦しい辛いと叫びながらも、心の内では愛しているんじゃないか。個性の欠落を恐れているんじゃないか。世を憎む為の免罪符を手放すことが怖いんじゃないか。疑問は新たな疑問を呼び、一体どの部分が本当の思考なのかわからなくなる。

 

 

 

 もっと楽に生きたいけれど、その生き方が楽しいと感じるのかはわからない。少なくとも現在のわたしは苦しんでいて、一方でその痛苦を楽しんでいる自分もいる。もしかすると、現在感じている心の痛みや異常性は、とても愉快な玩具なのではないか。世間一般で描かれるような幸せでは到底満足出来なかったから、それら全てを手放してまで無意識的に玩具を創り出したのかもしれない。

 

 もしもそれが真実ならば、この苦しみこそが幸せの絶頂であって、思考停止して表情を歪めている場合ではない。幸せな瞬間は誰もが笑顔になる、皆一様に微笑を浮かべる。そこに苦しみというスパイスが加わると、幾粒もの涙が流れる。だからこそわたしは、泣きながら微笑んでいる。そうやっていつまでも、笑っていたいんだ。