[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0156 そのどちらでもない

 

 何事も極端が過ぎると胸が苦しくなってしまう。

 

 ポジティブでもネガティブでもない、ニュートラルで生きていたい。出来る限り心の平静を保ちたい。その思いはやがて”決して乱れてはいけない”という強迫観念に変わり、自身の心臓を締め付ける。

 

 ”不器用だなぁ”思えば思うほど言えば言うほどに不器用は加速していく。”私は器用だから大丈夫”という過信が身を滅ぼす。”私は不器用だけど、得意なことだってある”という自己受容が心の締め付けを解放する。

 

 どうして上手く立ち回れないんだろう。こんなにも息苦しいんだろう。思考の歪みや偏りに身を委ね続けた結末がこれだ。世を生き辛いと”思い込んでいる”繊細人間が誕生した。思い返せば、10年前は本当に何も考えていなかったなぁ。「深く考えない」という立ち回りがとても上手だったように思う。

 

 だからといって”あの頃に戻りたい”なんて呟くほど愚かではないけれど、当時の感覚を取り戻したいと願う自分がいる。少しだけ、ほんの少しでいいから、過去の奔放性を抱きしめたい。チューハイ一缶で泥酔していた過去の隣で、そっと一緒に眠りたい。

 

 現在を生きるわたしは、脳に思考を詰め込み過ぎている。何も考えていないよりは幾らかマシだと思っていたけれど、何事も深く考え過ぎて心が痛くなるぐらいならば、いっそのこと全ての思考を放棄してしまう方が賢明なのではないだろうか。

 

 「深く考える」と「何も考えない」の二極化。根本的な思考の癖がよろしくない。その中間にある「たまに深く考えてみる」を受容していくことが大事になる。そういった柔軟性を取り戻すことが出来れば、もう少し日々を気楽に過ごすことが出来るかな。

 

 「幸せになりたい」という思いがわたしを不幸にする。「出来る限り不幸を遠ざける」ぐらいが丁度良い。不幸とは出来る限り距離を置く、そうすることで身近な幸に気付くことが出来る。もういっそのこと不幸でも構わない、どう頑張っても駄目な時は駄目だから、時には諦めることも大事なのかもしれない。結局、最後は死んでしまうのだから、適当に生きていればよろしい。楽観するでも悲観するでもなく、口笛を吹きながらゆっくりと歩いていきたいな。

 

 

 自由奔放に、空に溜め息を吐きながら。