[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0263 風が去った

 

 今日は家から出ないと決めて一日中家のなかで過ごすのと、外的要因でやむを得ず家の中で過ごすのとでは大きな違いがある。やっぱり人間には選択肢が必要なのだ。昨日は台風7号の影響で会社が営業停止し、近所のスーパーもドラッグストアも行きつけのカフェもシャッターを降ろしたままで、なんだか少しだけ緊急事態宣言の時に戻ったような、そんな感覚だった。「危険なので外に出てはいけません」と言われると、ちょっぴりその世界を覗いてみたくなるのが人間心理というもので、それは鶴に恩を施した老爺にでもなった気分になる。

 

 こういう時、家の中に拘束されている時には、普段は目に輝きを与える何もかもが、その色を失ってしまう。要するに何もしたくないのだ。どこにも心が向かないから、何もすることがないとなる。映画も小説もインターネットも食事もお風呂も、その何もかもが大きな障壁に感じる。コロナ渦でも最初の方は同じ感覚だった。それ故に、何もすることがなくてアルコールに手を伸ばす。お酒を飲むと時間経過が急速になる気がするのだ。それはなんだか勿体ないように思えるけれど、いまはただこの瞬間だけがひたすらに過ぎ去ってほしいと、現在から逃げる為の手段として無心で次々と酒を呷る。

 それは便利なライトドラッグだなと思う。独りに耐えきれなくなった時、不安でたまらない時、いまこの瞬間に心身が耐えられない時、わたしは9%程度のドラッグを頼る。缶同士の触れ合う音がどこか間抜けで、それをかき消すように大きなため息を吐く。アルコールを与えるだけでは眠れないため、たどり着くのはYOUTUBE。適当に眺める、スワイプをして新たなおすすめ動画を表示させる。ずっとディスプレイと睨めっこ、先ずは眼球が死ぬ。次にアルコールで脳と心が破壊され、最後には空っぽに流し込まれた内臓が爆発する。YOUTUBEもまた、デジタルドラッグだなと思う。右を見ても左を見ても、現代にはあらゆるドラッグが溢れているじゃないか。それがたまたま合法だっただけ、そう考えると世界は恐ろしいね。

 

 酒を求めて雨風のなかを彷徨う姿は、まるで現代版ゾンビのようだった。かろうじて営業を続けるコンビニエンスストアには、そんなゾンビが数匹生存していた。こんな強風の中、全身を濡らしてまで食料やアルコールを買い求める。何だか彼らとは仲良くなれそうだと一瞬でも思い巡らせた自分自身が、急激に情けなくなった。違うちがう絶対にそうじゃない、わたし達はちょっぴり寂しいだけなのだ。やることがなくて、虚しさから逃れるためにそうしているのだ。そして、いつまでわたし達はこうしていればいいのだろう?

 

 数年前に好きな人と台風の一日を過ごしたこと。当日、相手の家に向かう最中であまりの暴風に絶望していたその時、一台のタクシーが通りかかり吸い込まれるように乗車した。「こんな日にまで営業されて大変ですね。そのおかげで救われました」と伝えると、「もう少し風が強まってきたら帰ってビールでも飲もうと思います」と運転手が言う。その返答から漂う清々しさに、既にわたしは全幅の信頼を置いていた。メーターが上がれば上がるほどに勢いを増す暴風、首振り人形のように揺れる木々、耳を劈く雷鳴、今にも窓ガラスを貫通しそうな大きな雨粒、それはワイパーが追い付かないほどの雨量でもうほとんど前が見えない。まさに世界の終わりのようだった。その状況を運転手さんとキャッキャ言いながら楽しんでいた。そこらのテーマパークのアトラクションなんかとは比べ物にならない、正に言葉通りのリアルがそこにはあった。

 何とか目的地に到着後、支払いの際に「さすがに今日は?」と聞くと、「帰りますね!」と返ってきたので安心した。本当に気をつけて帰って下さいね、と言うことしか出来なかったけれど、気持ちとしてビールとおつまみ代を手渡し、雨の中タクシーの後ろ姿を見送った。

 

 これまで台風の日にはあえて外に出るようにしていて、多分きっとその時は刺激を求めていて、やっぱり外に出ると何かしらの出来事に遭遇して、結果的に良き思い出ばかりなのであった。それなのに今年は外に出ることが選択肢になくて、自分もお利口さんになったものだと感心と侘しさが渦を巻き、感情の大洪水を発生させる。こうも人間は変わるものなのか、そんな自分自身に少しだけ絶望した。刺激を求めていないわけじゃないけれど、その他にも求めることがたくさん出来てしまって、感情が分散された結果、行動レベルが著しく低下している。家で酒飲んでYOUTUBE眺めてる場合じゃないな。台風は家の中では発生しない、刺激はいつだって外の世界にある。それが多少危険を伴うものであっても、わたしはいつまでも傷ついていたいと思うのです。