[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.006 行動療法と怠惰の因果関係

 

 あぁ、今日は少しばかり調子が悪い。

 

 そう思ったが最後、その一日は何もかもが上手くいかない。上手くいかないことに対して焦り苛立ち取り乱す。そういった日は、自分が世界で一番不幸な人間のように感じる。わかってるんです、実に滑稽な思考回路を自分自身が持ち合わせていることは。理解していると書いて、わかっていると読む。不幸自慢や不幸比べは見ていられるものではないけれど、幸福の吹聴は最上級に目もあてられない程に醜い。勝手に幸せになってろ、自分の中だけで嚙みしめろ、と反射的に思ってしまいます。また、そんな自分が何よりも醜いことを理解しているつもりでもいます。世の中には醜いものが溢れている。醜悪が立ち込める世だからこそ、美しさが際立つ。だとすれば、この醜さにも僅かながらの価値を見出すことが出来そうだ。そんな希望もまた、醜さの断片を含有しているのだろうか。

 

 一体、その日の調子や気分はどのように形成されるのか。昨晩はよく眠れたとか、今日は好きな人に会えるとか、寝坊が原因で時間的余裕を欠いたからとか、美味しい物を食べたからとか、雨と湿気で前髪がうねるからとか。様々な細かい要因が絡み合い重なり合って今日の私を形作る。さっきまで物凄く憂鬱で陰鬱な気分だったのに、たった一つの出来事がそれらの鬱々とした雲をすべて薙ぎ払う時がある。気になっている人から突然食事の誘いがあったり、好きなアーティストが新作を発表したり。自分自身の中にある確率された”好き”が予期せぬアクションを起こしたときには、瞬間的に陽光が差し込んでくる。歓喜で心が埋め尽くされる。瞬時に悦が身体中を満たし、存在を肯定されたような錯覚に陥る。

 

 気分が沈みがちな時に服用するべき一番の特効薬は、たくさんの"好き"で身体中を埋め尽くすことだと思う。自分の場合は、部屋を暗くして、キャンドルと間接照明を灯し、ルームスプレーと香水を自分自身を含む空間全てに散布して、好きな映画を観る、または好きな本を読む。眠気には抗わず素直に従う。これで翌日にはある程度サッパリっとしている。苦しい時は、仕事も休んでしまう。自分が壊れてしまっては元も子もない。調子が悪い時には何よりも自分を大事にする。自分自身のご機嫌を大事にしてあげる。それが一番の優先事項だと思っている。

 

 気分なんてものは出来事次第で瞬時に形勢逆転するものだから、あまり気に留めず深く考えない方がいいのかもしれない。しかし逆転劇に期待を抱いてしまうと、何も起きなかった場合には失望的ダメージにより精神がさらに損傷してしまうので気を付けなければならない。それならば、いっそのこと人生そのものに対する期待さえも廃棄処理した方が賢明ではないか?

 

 人生そのものへの期待を断捨離します。その先の人生からは失望という概念が消え去る。その代わりに悦びや人間らしさ、個が持つかけがえのない感性さえも消滅するのではないだろうか。過剰な期待は心を蝕むけれど、適度に期待することは人間らしさに磨きをかける。わたしの未来は明るい、多少暗くても、読書をするにはちょうど良い。直視できる程度の明るさ、その程度には期待や希望を胸に抱え、年を重ねて行きたいものです。

 

 

 あまり深く考えずに、それなりに呼吸を繰り返して。

 吸って吐いてをやめるなんて言わないで。