[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0462 演者として

 

 起き抜けから何となく失望。朝が一番エネルギーに満ち溢れているはずなのに、現時点でその大半を見失っている。インプットが足りない予感、憂鬱の中で求め続ける芸術、孤独死のススメ。完璧主義がわたしの人生を阻害する、もうやめて現れないで、なんて見ないフリ見えないフリ。今日一日が苦しいわけではないけれど、なんだか大事なことを置き去りにしているような、そんな虚無感に覆われている。

 

 歩く、こんな時は何も考えずにただ歩いてみる。身体と脳は連動している。身体を動かすことによって、停滞した脳を回転させてあげる。そんなイメージ。想像の力ってのは良い意味でも悪い意味でも恐ろしいもので、人はなりたい自分に成っていくのだ。ちょうど鬱病の人がその鬱を求めているように、強迫性障害の人がその強迫観念を求めているように、悲観主義者がその悲劇を心待ちにしているように。深層心理、無意識の中でわたしたちは自分に必要なものを選び取っているのだ。だとすれば、この萎れた花、虚無とか憂鬱とか孤独とか、これら全てもわたしが心のどこかで必要としていることなんだろうか。それが事実であるならば、一体どうしてそんなことをするの? 特別でありたい、可哀想な人間、誰かに注目してもらいたい。その実はありきたりでちっぽけで哀れな願望なのかもしれない。最初はぜんぶ「フリ」であったのにも関わらず、気が付けばいつの間にか本当になってる。そんなものなのかもしれないね。そうやってわたしは精神病を創造して、孤独を演出して、日常が虚無だなんて嘆いている。あぁ駄目だ、何も考えずに歩くこと、とっても難しいことなのだった。

 

 楽観的な人が幸せそうに見えるのは、頭の中がお花畑でハッピーになってる訳ではなく、物事から楽観的な要素を抽出する力が身についているから。なんも考えていない、無計画な訳ではなく、自分にとって都合の良い部分を取り入れているから。悲観的はその逆で、不安要素の抽出がとっても上手、ただそれだけのこと。結局のところ、意識的にしろ無意識的にしろ、自分自身で選び取っているのだ。だから現在の自分という魂を伴った物体は、これまでの経験の集合体であり、一つの作品なのである。楽観的でハッピーであること、悲観的で苦しみのなかを生きていること、そのどちらもが正解なのだ。だったらわたしは、自分にとって都合の良いもの、それは美しいものをたくさんイメージして創造したい。どうせ、死後は焼かれ、肉体は灰になる。見た目だけの美しさには限りがある。さぁ、どうやって今日を生きようか。そう考えたとき、頭の中に浮かぶのは愛の残像で、沈んだ気配もこれまた美しい。やっぱりわたしは、なに一つとして間違っていなかったんだ。