[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0245 綿あめのように

 

 朝、目覚めた瞬間から「何もしたくねぇな」に身体が支配されていて、ポツリ呟くも室内に虚しく吸収されていくだけだ。こういうのがたまにある、この場所でも何度か書いている。頭に突きつけられた拳銃みたいな虚無。脳みそが上手く働いていないな、栄養不足かしら。心も身体も、あなたも私もこの世の中さえも。

 

 とても元気な二日酔いみたいな感覚で、何だかずっと身体がふわふわとしてる。誰かとお話しできれば少しは地に足が着きそうなんだけど、ここには私以外の誰も存在していない。LINEとかDMとかそんなんじゃなくて、手紙を認めたいような気持ちになる。これは自分の感じ方や捉え方の歪みかもしれないけれど、文明が発達すると共に、世の中が便利になればなるほどに、コミュニケーションの質が薄くなる気がする。四六時中、毎日のように、会わずとも言葉を交わすことが出来るのは冷静に考えれば物凄いことだ。それ故に、言葉の一つひとつの重みが良い意味でも悪い意味でもとても軽くなっているように感じる。おはようおやすみを言い合うことも、今日あった出来事を報告し合うことも、物理的距離があっても相手の存在を濃く感じられることは素晴らしいはずなのに、それでも今日相手が何をしていたのかを知らないままでいたかった自分がいる。

 

 ただ自分が複雑に考え過ぎているだけなのかもしれない。だとしてもこの違和感を見逃すことは出来なくて、この思いを無理矢理捻じ曲げることもまた難しいだろう。インターネットを介して交わされる言葉の一つひとつが、綿あめのような軽さで互いの心を右往左往している。自分としては、言葉の重みが足りないのだ。もっと愛を感じたいし、愛を伝えたいのだ。だから時折、メッセージツールに嫌気がさしてクローゼットにiPhoneを投げ込んでしまう。そういう時はきっと心が疲れている時で、そして少しばかり愛が不足している時なのだと思う。

 

 もっともっとシンプルに考えれば、インターネットは便利でしかない。ただ、ちょっぴり頑張り過ぎた時に発揮される偏屈さ加減がその便利さに嫌気を注いでいるだけだ。インターネットが無ければ、こうやって自分が書いた文章を公開できないし、見ず知らずの人の意見や価値観に触れる機会が大幅に少なくなる。インターネットがあったおかげで出会えた人もいて、今となっては私の人生に欠かせない存在として輝いてくれている。物は使い用とはよく言ったものだけれど、ことインターネットに関してこれ以上に最適な言葉は無いんじゃないか。深く入り浸り過ぎてもしんどくなるし、距離を取りすぎても可能性を見失う。だから現在の自分は少々深く関わりすぎたせいで、嫌になってしまっている。ただそれだけのことだから、コミュニケーションとしての一つの在り方を否定するつもりは毛頭ないことをご理解いただきたい。

 

 軽いことは、良いことでもある。何でもかんでも重さが伴っていれば、受け取る側がしんどくなってしまう。気軽に言葉を発することも難しくなるだろう。『いまなにしてる?』ぐらいの軽さで『生きてる?』とメッセージを送りたくなる夜もある。その瞬間に使われる言葉は何だってよくて、相手からメッセージが返ってくることに対して安心が発生したりする。"既読"の二文字に怯え、言葉の不在に対して後悔ばかりの憂鬱だってある。コミュニケーションの形が変われば、違った感情が生まれて、それだけの物語が生まれる。その素晴らしさを認めた上で、利点を愛した上で、いまは言葉の重みが欲しいと感じている。

 

 手紙を書きたい。会って話したい。あなたと私で言葉を交わしたい。アナログな世界の中でその不便さを味わいたい。それが叶わないと知っているから、いまは何もしたくないと思うのです。