[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0246 雨の打つ音

 

 休日、特に予定がない日は、誰とも会話することなく一日を終えることが多い。そりゃあそうだ、誰とも会わないのだもの。そこには少なからず”会えない”という要素も含まれていて、何だか強がっているような感覚にもなる。

 

 言葉を発したとしてもカフェで会計の際に「ご馳走さまでした」と伝えるとか、スーパーやコンビニで「レジ袋お願いします」と言うくらいで、それらは常に一方通行の発信に過ぎない。たった十文字程度の言葉たちをポロポロと口からこぼすだけで一日が終わる。一文字も発することなく終わる日だってある。一切の装飾をなぎ払って言えば、とても寂しいのだ。最近では「あれ、一人暮らし向いてないんじゃない?」と思うほどに休日の中が空っぽだ。

 

 寂しいと素直に言えることは大事だと思う。自分に嘘をついても仕方がないからね。シンプルに一日を誰とも話さずに終えることが勿体ないと感じる。特に会話をしなくても、同じ空間に親しい人がいてくれれば満たされる部分があるのだろうか。そういうことを考えるうちに共同生活に対して興味が湧いてきた。それもこれも全ては寂しさが発端なのには変わりなくて、刹那的な原動力を頼りに未知へ突き進むには不安定で悩ましい限りだ。

 

「ふいに寂しくなる瞬間って訪れません?」

 

 つい先日、兄貴的な先輩と酒を飲んでいた時に聞いてみた。先輩は自分よりも長い期間一人暮らしをされていて、それでいてどこかいつも楽しそうにしている。

 

「うーん、そういえば寂しさについて考えたことが無かったな」

 

 マジか。脳天をぶち抜かれた気分になった。そんなことってあるの? 私は不思議でたまらなかった。聞いたところによると、どうやら先輩は寂しさや孤独感とはほとんど無縁らしい。「急にめっちゃ寂しくなるわ」「だからこうやって先輩と酒を飲んでるこの瞬間が幸せやねん」「アルコール最高、焼肉最高!」なぜか感情が暴発して関西弁の孤独が饒舌になっていた。先輩は一人行動をよくされていて、同じく自分も一人でどこまでも行ってしまう。そこに寂しさが伴うか伴わないかの違いで、ここまで感情に振れ幅が生じるのか。良い意味で、目の前にいる先輩が全く別の生物に見えた。だからこそ話していて楽しいし、だからこそまた会いたいと思える。

 

 どう頑張っても現在の自分には寂しさがこびりついていて、しばらくは剝がれそうにもない。ウダウダ言っていても何も変わらないから、その寂しさを受け容れた上で行動していくしかない。一人きりで思考ばかりを巡らせていると頭の中がオーバーヒートしてしまうから、幅を広げる為にたくさん本を読むようになりました。本を読んでいる時、物語に没入している瞬間は寂しさを忘れられる。そういった逃避、向き合い、どちらとも言える好きな物があって本当に助かった。『読書は著者との会話である』とはどこかで目にした引用文だけど、まさにその通りだ。日常的に本を読む習慣がある人は、どこか寂しそうだ。これはわたしの考えなのだけれど、全然寂しくない平気という人は本を読まないでも生きていける。それだけ日常が満たされているから、欠けた部分を読書で補う必要がない。だから私は、本を読む人が好きだ。それはどこかしらで鳴く寂しさを感じられて、自分だけではないことに安心を得たいからなのかもしれない。

 

 大雨の中で高笑いしている人がいた。彼は寂しい人だったのだろうか? 幸福な独り者はいつだって笑顔を浮かべている。そこに涙は存在せず、その様相は乾涸びた砂漠を彷彿とさせる。だからまだ、私は寂しさを感じるのだろう。こうして書くことによって誰かとの会話を試みているのだろう。まだ自分自身を諦めきれないから、苦笑いばかりが表情を埋め尽くす。

 

 たとえ、その会話が一方通行の愛であったとしても、言葉に温もりを乗せることはやめられない、ただそんな予感がする。そう考えると寂しいって良いことで、いつまでも寂しいままで構わないような気もする。

 

 

 そんな強がりさえも 手放してしまえよ。