[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0260 優しい謝罪

 

 一説によると、「すみません」とすぐ言葉に出す人は自己肯定感が少しばかり低いとのこと。わたしも過去にはすぐ謝ってばかりいたけれど、今思い返せば「すみません」って言っとけば何とかなると考えていた節がある。枕詞としての謝罪、会話の入場口に軽めの謝罪を置いておく。そんなことをするのは日本人特有の癖みたいなもの、みたいな一文を本で読んでから、その考えを改めることになった。

 自分でもずっと逃げているような感じがしていたのだ。そもそも私はだれに許されようとしている? 少なくともそれは目の前にいるこの人ではない。というか、何も悪いことしてないのにどうして謝らなきゃならないんだ。冷静に考えると意味わからないじゃん。そう思うようになったわたしは、気が付けば「すみません」を卒業していた。これまでよりちょっぴり傲慢になったのだった。勿論、自分に非があると感じた場合には即座に謝罪する。でも、そういう時に出てくるのは、「申し訳ございません」「すみませんでした」「ごめんなさい」という言葉で、「すみません」という五文字はどこか中途半端なのではないかという気持ちが拭えない。人間だから、時には失敗をして相手を傷つけてしまったり、迷惑をかけることがある。そういう時には正面から謝り切ることが大事で、「すみません」というのはどこか薄ら笑いをしているような、そんな不気味ささえ感じてしまう。せめてもうひと踏ん張り、「でした」まで発してほしいと思うのです。

 

 取引先にものすごく謝罪する方がいる。それこそ顔を合わせば「すみません」、会話中にも「すみません」、去り際にも欠かさず「すみません」。なんかこっちが悪いことしてるみたいじゃん。「そんな謝らないでください」と遠慮がちに伝えても、倍以上の「すみません」が焦り気味で繰り返される。もう顔を合わせるようになって数年が経つのだけれど、それもこの人の個性なんだと受け容れられるようになった今日この頃。

 それにしても年々謝罪度合いが増している気がしていて、それも全部気のせいかしらと流していた。先日、会社のエレベーターで一緒になった時に、「いつも迷惑をおかけしてばかりで、本当にすみません」「わたしが迷惑かけてばかりで」「まだ猛暑は続きますので、しっかり水分補給をして倒れないように気を付けて」と言われた。最後はなんだかお母さんみたいなことを言うなと思ったけれど、その方は実際にお母さんと同じくらいの年齢なのだった。なんだか、どうしようもなく泣きたくなった。「あぁ、この人は近いうちにいなくなってしまうかもしれない」そう思ったのだ。精神が追い詰められている時の、その上で必死に練りだした渾身の謝罪だった。「決して迷惑なんかじゃないです。寧ろわたし達はあなたに感謝することしか出来ません」「○○さんもお身体お大事になさって下さいね」と伝えたところ、弱々しく「本当ですか......」「ありがとうございます」とポツリ二言が落ちただけだった。

 

「私、ごめんね、じゃなくって、ありがとうって言葉を大切にする。」

 学生時代にドラマ"一リットルの涙"を観ていた。「『ごめんなさい』は大抵の場合『ありがとう』に言い換えることができる」という一言がとても印象的だった。当時の少年は震撼した、言葉の可能性をはじめて思い知った瞬間だった。

「いつも迷惑をかけてごめんなさい」よりも「いつも助けてくれてありがとう」と言われた方が、受け手としても気持ちが良い。これは、なによりも相手のことを考えた気持ちの言い換えだと思う。それを言われた時に、相手がどの様に感じるのか。「すみません」と言われてばかりでは、こちらまで申し訳ない気持ちになってくる。「ありがとう」と言われれば、こちらこその思いで感謝を返したくなる。怒っている人には怒りで返したくなるし、泣いている人の涙が伝染することもある。他人は自分を写す鏡、とはよく言ったものだけれど、実のところその通りなのかもしれないね。

 

 現在のわたしは、たった五文字のその言葉が、それは悲しくてたまらないよ。