[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0183 子守歌が終わる頃に

 

 寒い日が続きますが、そんな中で私の心に大きな変化がありました。

 

 それは「人生って、別に一人でもよくない?」と思うようになったこと。見るに堪えない造形をした家族コンプレックスをエネルギー源として、これまでに膨大な量の孤独感を生成してきた私ですが、結局のところ孤独という奴は捉え方次第なんじゃないか。独りが悲しいと泣いている人間よりも、独りでも楽しそうに過ごしている人間の方が魅了的に映る。客観視点を気にしながら生きるのは辛いから魅力の有無は度外視したとしても、主観的にも楽しい方が生きやすさを感じやすいと思う。独りが楽しい状態というのは、もうそれは”独り”ではなく”一人”なのであって、それは孤独ではなくて"選択的孤立"と呼べる状態ではないでしょうか。

 

 独りが悲しいと泣いている人間も可愛いけれどね。僕はそういう人間を嫌いになれないなぁとつくづく痛感する。過去を生きた自分がそういう状態だったこともあり、孤独に蝕まれる心の息苦しさに共感できるからこそ、当人が抱いているその苦しみに違った方面の魅力を感じてしまうこともある。でも、やっぱりとても生き辛そうだ。僕もすごく生き辛かったし、今でも肺を圧迫されるような息苦しさを感じることが多々ある。それでも、一時的にしろ孤独から脱却したことによって、背に生えた羽根を少しだけ自分の意思で動かせるようになったような、そんな自由さを感じる。

 

 一歩家から飛び出せば外の世界にはたくさんの人間がゾンビの如く蠢いている訳であって、物質的に考えれば自分は完全に独りぼっちだという訳ではない。けれども、孤独というのは心の状態であるからして、そこに意思疎通が介在していなければ孤独であることには変わりない。寧ろ、同空間に他人がいる時の方が孤独を痛感させられることもあって、それが心に悪い影響を与えることだってある。「うわ、めっちゃ寂しい」と思った時、唐突に空いた心の隙間を適当な人間に会うことで埋め合わせしようとしたけれど、残念ながらその隙間を埋めたのはより強固な孤独でした。なんて話しはそこらじゅうに転がっている。

 

 会っても虚しい、会わなくても寂しい、わがまま放題な叫声を張り上げるのが人間という生き物です。「寂しいから会いたいって気持ち:6割」「寂しいけど今は一人家の中で過ごしたい気持ち:4割」みたいに自分の中で異なる感情が戦闘しているのもこれまた人間です。誰かに会ったとしても残りの4割が怒涛の勢いで巻き返してきて、後悔。誰とも会わなくても優勢な6割が心の穴を抉じ開けて、憂鬱。もう何が正解なのかわからなくて、躁鬱。所詮わたしたちはその程度の生き物なんです。

 

 そもそもの話し、他人に会う事で自分の孤独感が弱まるという思考そのものが傲慢だ。それって他人に期待し過ぎているし、誰かに会わないと会い続けないと孤独に潰されてしまうという呪いを自分自身に施しているんじゃないか。他人は空いた隙間を埋めてくれない。孤独感は自分自身と向き合うことによって徐々に解消されていくものなんじゃないかと思う。だれかに甘えてはいけないと言いたいのではなくて、時として世界に甘えることも大事だと思う。他人は空いた隙間を埋めてくれないけど、その手助けをしてくれることがある。それでも、最終的に埋める作業をするのは自分自身になるのだから、他人との付き合い方、そして自分との向き合い方を考える時間をたくさん作ってあげてほしい。

 

 そして、何となく辿り着いた答えが「人生って、別に一人でもよくない?」でした。対人関係への執着が自分を辛い生き物へと変貌させていたのかもしれない。今は一人でいることに満足しているけれど、また数か月後には虚しさに満たされ空に嘆いているかもしれない。それってとても苦しいから、そうならないようにゆっくりと自分を甘やかして、世の中に中指を立てながら微笑を浮かべていたいものですね。

 

 

 別に一人でもいいと思えるからこそ、安心して側に寄り添うことが出来る。