[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0433 人の沈む音がする

 

 久しぶりにちょっぴりダウナー、ここ最近はずっとずっと動いていたから、文字通り「考えている暇」がなかったんである。ネガティブなこと。暇は人間を駄目にするとはいうけれど、必ずそうとは限らないと信じているけれど、自分の場合はどうにもその公式がバッチリ当てはまっているようで、家でなんもせずボーッとするってことが、なんとも苦しく感じるのであった。

 

 ボーッとするのは風呂に入っている時とか、寝る前の真っ暗なベッドの上とか、そんな瞬間的なもので満足なのだ。それ以外は、それ以外の時間は、ずっと何かを考えていたい。何かに触れていたい。何かに関わっていたいのだ。自己完結することでも、他者介入することでも、兎にも角にも世界そのものと関わっている、そんな感覚を欲している。寂しいのかもしれないし、心のどこかでは孤独を恐れているのかもしれない。けれどもそれが本心ならば、もうそれ以上はどうにもならないこと。そのままありのまま受け入れて差し上げればよろしい。己。

 

 隙間時間で死ぬことを考えるのも、この後何しよっかなと考えることも、流れる時間は同じなのに、人生の方向性は真反対に進んで行く。ちょっぴり沈み気味な現在、改めて考えてみると「死にたいってことを忘れてた」という気づき。動き続ける中では無意識に生きようとしていること。楽しいことも苦しいことも痛いことも、経験を通して生を実感していたこと。なんだよ、結構楽しかったじゃないか日常。色んな人と色んなお話しをして、疲れ切って気絶するように寝て、アラームの音で目覚め文書書いて、ただひたすらに、色んな形で言葉を重ねて。わたしはね、どうしようもないこの日常を、心の奥底で愛していたんだよ。

 

 今日は何しようかな、明日はどこに行こうかな、毎日毎日積み重ねていれば、知らない景色にたどり着ける。そんな風に考えて、他人からみれば意味のわからないこと、理解できない無駄遣いを、しばらくの間は続けていたい。そこにある何もかもが無駄じゃない、だってわたしの感性を隙間なく殴り続けているんだもの。心を開いて、外に踏み出す、旅に出る、出会う、別れる、傷つく、笑う。死ぬことばかりを考える前に、行きたい場所に行って、会いたい人に会って、手に入れたいものを手に入れる。どうせ死ぬ、どうせいつかはいなくなる。そう考えた時にはじめて、凝り固まった人生を破壊することに意味を見出せるようになるのです。破壊と創造、先にあるのは常に破壊。浮き上がり過ぎないように、いまは少しだけ沈んでいる。そんな自分でさえも、少しだけ壊してやりたいと思っています。あゝ、この感覚が愉快で気持ち良くて心地良くて、好。