[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0432 美人は虐げられる

 

「どうもお前は八方美人過ぎるところがある」

 

 昔、父親から言われたことがずっと頭中で渦を巻いて今でも時折よみがえる。その日から持っていた優しさが少しずつ、ポッケの隙間からこぼれていった。目の前にいる人に楽しんでもらいたいだけなのに、心地好くなってほしいだけなのに、それなのにどうして、わたしは誰彼構わず良い顔をしている愚かな子供の烙印を押された。ほんの一部分、深い部分までは知らないのに、表面で判断されたことを真に受けてしまった。

 

 わたしも幼かったし、彼もまた若かった。お互いに自分のことしか見えていなかった、本質なんてなんにも理解していなかったのだ。わたしがあなたを眺めている時、ただ一つだけ思うことは、他者への対応がぞんざい過ぎるということだ。他人様に対してもっと丁寧に接しなさい。そして自分のことはより丁寧に扱いなさい。でもね、わたしはなにも言わない。それはあくまでわたしの価値観なのだから。個の価値観を基準として繰り広げられる正義劇場は、相手のことを間違いなく傷つけてしまう。幼いわたしがそう感じたように。だからわたしは何も言わない、なんにも言ってあげないのだ。

 

 

 お世話になっている方に人生相談なるものをしていた時、話しの流れで漏れ出た「この性格を父は八方美人と揶揄するんだよね......」という一言。”咄嗟に出る”とは正にこのことで、自分自身でも驚いた。心の奥底でずっと引っかかっていたみたい、本心はいつでも素直なのであった。

 

「それもあなたの個性なんだから、わたしはいいと思うんだけどな」

 

 八方美人のことを肯定も否定もしない、あくまで”わたしはいいと思う”という気持ちを伝えてくれたことが嬉しかった。そうか、人からなにを言われようとも、いくら虐げられようとも、それがわたしの個性なのだ。そこに良いも悪いもない、相手が勝手に判断しているだけなんだ。「だからお前は駄目なんだ」と言うひともいれば、「あらまぁ素敵」と言ってくださる方もいる。結局のところ、価値基準は個によって異なるのだから、最早なんにも気にしなくていい。自分が自分らしく生きていれば、あなたがあなたのままで生きていれば、それが唯一の正解だった。

 

 何となく、漂う夢のなかでそんなことを思い出した。あの時は悲しかったし、嬉しかった。価値観の枠組みがすこし広がったような実感があった。こうして人は成長していくんだろうか。だとすれば、悲しみもまた必要な感情なのだ。出来ればずっと馬鹿みたいに笑っていたいけど、悲しむことで見えてくる”何か”があることも事実だった。それでもやっぱり、否定されることは苦しいね。相手次第では余計にね。悲しみの奥底で「認められたい」と願う感情をそっと地面に置いてみる。そのままゆっくりと歩き出してみる。あなたからの承認を、最初からなかったことにして見ないフリ。いや、本当はずっと眺めていた。その上でわたしは諦めてしまった。「八方美人」と言われたあの日、わたしは美しい個性を手に入れた。