[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.0431 優しさの不在

 

「あの時、もっと優しくしておけばよかった」

 

 ふと頭に過ぎるひとつの考え。積もり積もった後悔に覆われた心のなかは、不思議と少しだけ温かかった。優しさに関する後悔が、次々と浮かんでは消えてごめんねさようなら。あの時、あとほんの少しだけ、寄り添うことが出来たなら。もう会えない人、会うことがないであろう人。思い返せば、ブリキ人形のような不器用さ、人間らしいコミュニケーションが出来ていなかったよなぁ。しかし、「優しさを伝えることが出来ていたなら、少しは形が変わっていたかもしれない」なんてことは思わない。やっぱり縁というものは存在していて、その時の二人には、それ以上の結末などあり得なかったのだ。

 

 基本的に後悔というやつは意識が過去に向いている状態、その上で現在の心をほんのりと蝕んでいくものだけれど、この優しさに関する後悔だけは、少しだけその種が異なっている。もうその人に会うことは叶わない、優しさを配ることはできないけれど、だからこそ、現在のなかで側にいる人、関わる方たちに優しく在りたいと考えられる。過去の優しさを現在に繰り越しているイメージ、その手持ち部分を出し惜しみなく使っていきたい。罪をなかったことにすることはできないけれど、これ以上罪を重ねないように生きることは可能だと思うんです。落ち込んでいる人がいれば声をかけたり、アイスクリームやケーキを差し入れしたり、一緒にお茶を飲んだりする。見て見ぬふり、素知らぬふりをされることが、一番人を傷つける。今日も顔を合わすたくさんの他人が自分には無関心なのである。そうなるとやはり人間不信が加速する。その中で、たった一人でも「大丈夫?」と声を掛けてくれる人がいた時には、幾らか心が軽くなって救われる。辛い時、苦しい時に、ふわりと舞い込んできた優しさが、とても温かくて泣きそうになった。わたしにはそのような経験がたくさんあります。たくさんの優しさを受け取ってきました。その温もりは、心のお守りとしてずっとわたしを包んでくれている。

 

「僕もこんな風にすればよかったんだな」

 

 受け取ったたくさんの優しさを一つ一つ愛でている時、過去の不甲斐なさを痛感する。もう何を言っても戻らない関係性とか、たった一言で変わってしまった世界とか、悲しみを与えてしまったこととか、そういうのはもう現在のなかで終わりにしたい。やはりどうしても人間、知らず知らずのうちに傷をつけてしまうこと、生きているなかであるんだろうけど、その傷を最小限にすることは自分の意識次第で可能なのです。その為には教養や知識が必要で、大前提として行動が重要になってくる。「心配」という言葉は"心を配る"と書きますが、自分が満たされていないと誰にも配ることなんでできない。これは優しさも同様であり、ある程度余裕がないと誰かに優しくすることは叶わないのです。だから自分は、過去の自分は、きっと限りなく余裕がなかった。自分のことで精一杯、周囲の状況なんて何にも見えてはいなかった。現在になってこのようなことを思うのは、少なくとも「あの頃」よりかは余裕があるからで、満たされているからで、もうこれ以上”水”は必要ないと考えられるようになったから。喉が渇いている人がいれば、コップ一杯の水を手渡すこと。そんな優しさ。はたまたこれは偽善でしょうか?

 

「やらぬ善より、やる偽善」

 

わたしはこの言葉が大好きなのです。