[No.000]

日記以上、遺書未満。

N.081 洗車雨

 

 ごきげんよう

 

 また一つ、年を重ねてしまった。自分も他人も、年齢なんてどうだってよくて、どのように生きてきたのかが重要だと思っている。よく耳にする話し。年齢なんてただの数字だ。よく目にする話し。だからどうでもいい、ただの日常、数年前に自分が産まれてしまった日、ただそれだけで意味の無い一日。

 

 それでも、「おめでとう」と言ってもらえると嬉しい。ありがとう。

 

 毎年7月6日は一人で過ごすことにしている。許されるのは顔も名前も知らない圧倒的他人達とすれ違うことだけ。誰かと過ごすと、その相手にとても気を遣わせてしまうように思えてこっちが気落ちしてしまう。対面で「おめでとう」と言ってもらえることも、お会計を出してもらったりすることも、プレゼントをいただいたりすることも。そういうこと全てに対して、こちら側が気を遣ってしまう。そういった何もかもが申し訳なくて、20歳を過ぎた頃から7月6日は仕事を休み自分ひとりでコッソリと過ごしている。

 

 自分の誕生日、クリスマス、年末年始、そういった特別を意識させられる日が嫌いだ。ただいつも通り過ごしたいだけなのに、世間が特別を過剰に提示してくるような感覚がいつまで経っても肌に合わない。そういう日を迎えた時には、ただ時間が過ぎるのを願うことしか出来ない。それすらも憂鬱に感じてしまう。外界と遮断する、それぐらいが丁度良いのかもしれない。日常があるからこそ、非日常が輝く。それならば輝いた非日常なんていらないから、どうか静かに生きることを許しておくれ。

 

 そんな憂鬱な一日、せめて自分に何か買ってあげようかしらと思ったけど、欲しいものが存在しなかった。限りなく物欲が枯渇している。それならば性欲を満たしてやろうかと考えるがそんな気分にはなれず、睡眠欲に対しても充分に事足りている。それならば最後に残るは”食欲”だ。コロナ渦に陥る前は、BARでボトルを卸して一人で飲み潰れる、みたいなことをやっていたけれど、今となってはそれさえもやる気が起きないし、もう一人で酒を飲むことにも飽き飽きとしている。何よりお金が嵩む上に最後に残るのは鬱だけだ。高いお金を払って鬱を買う、ある種これが現代のビジネスモデルの一役を担っているのかもしれない。おっと話しが逸れてしまった、とにかく、今となっては家でストロング缶を飲んでるぐらいでいい具合に満足が出来る。というか、これって”食欲”じゃなくて”酒欲”じゃない?なんてことはどうでもいいや。食事に関しては一人でいる時には何食っても全部同じ、そして全部美味いので、もっともっとどうでもいいことなのです。

 

 最近つくづく思うのは、自分は静かに暮らしたいのだということ。煌びやかな非日常とか、酒池肉林とか、富みや名誉とか、そんなものを求めている訳ではないのだということ。人間が好きだ、話すことが好きだ、けれども必要以上に関わりを持ってしまうと、相手の考え方や思考の癖がどんどんと自分の中に流れ込んできてしまう。良い意味でも悪い意味でも、自分は他人の影響を受けやすい性格だから。だからこそ、基本的には一人で静かに暮らしたい。そうやって初めて、他人と関わりを持つことが出来る。こうやって文章を書いたり本を読んだり、お酒を飲んだりマクドナルドを食べたりしながら、ただのつまらない日常を静かに歩みたい。たまに誰かと居酒屋なんかに行けた時には、それが立派な非日常だ。そのぐらいが、現在の自分には丁度良い。

 

 

 頼むから放っておいてくれ、

 私は私として、

 勝手に歩みを進めて行くから

 

 突然目の前から姿を消したとしても、

 跡形もなくわたしのことを忘れておくれ